少女、ノーフューチャー:桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』論【前編】2018.11.25

以下は、team:Rhetorica企画+編集『Rhetorica #04 特集:棲家 ver. 0.0』(2018.11.25発行)に寄稿した論考「少女、ノーフューチャー」を、許諾を得て再掲したものです。字数が3万字弱あるため、前中後の三編に分けて掲載します。誤字・脱字や数字表記など、表現を一部改めました。

1、私の、私たちのはじまり:汎少女論と成熟の教え

 未来があるとはどういうことか。見込みがないとはどういうことか。次につなげること、つながること。それは、つねにすでに、よいこと、なのだろうか。私はそのように問うことからはじめる。私は、この問いを念頭に置き、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet』(初版は2004年11月、富士見ミステリー文庫)を論じていく。この小説は、少女と、未来、あるいは未来のなさという主題を、前面に打ち出している。日本の批評では、「少女」というものを通して、「大人の身体を持ちながら大人でない、奇妙な存在」(大塚英志『少女民俗学』(1989年5月、光文社)19頁)が論じられてきた。こうした批評に示されていたのは、この社会で生きる誰もかもを、こうした意味での「奇妙な存在」として捉える、いわば、汎少女論であった。桜庭のこの小説を、少女と未来(のなさ)と、その両者の結びつきに焦点を当てて読解する私も、この汎少女論的な見方を汲んでいる。少なくとも、もっぱら登場人物の、ひとりの少女の視点で語られるこの小説が、大人になること(への失敗)を主題としていることは、これを一読すれば否定しがたいことだろう。

 誰もが「奇妙な存在」、すなわち、少女と化している、という見方。これは、それほど特殊なものではない。例えば、V-Tuber、あるいはもっと明け透けに言えば、「バーチャル美少女受肉おじさん」たちの登場は、少女批評における汎少女論――「誰もが、かわいくてかわいそうである。これが今日の消費社会を生きるぼくたちの、潜在的な共通感覚である」(『少女民俗学』247頁)――の、実践上でのリバイバルとでも呼びたくなる現象である。あたかも、誰もが(バーチャルな美)少女という「奇妙な存在」に、自らを仮託したがっていたかのようだ。

 いまや誰もが「奇妙な存在」であり、成熟(できるか否か)という問題を課されている。しかし私は、「ぼくたちは〈少女〉から〈大人〉になれるのか、なれなければ滅びるだけの話だが」(『少女民俗学』249頁)などと、陰惨な文言を唱えるのは、もうたくさんだと思っている。いや、そんな問いを立てるのは構わない。けれど、もっと軽快に、あるいは、楽観的に、この問いを口にすることはできないのだろうか。それとも、そもそも、この問いの立て方に、どこか悲観的にならざるをえないような、罠が仕組まれているのだろうか。これから読んでいく桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は、「〈少女〉から〈大人〉になれるのか」と問う物語として、また、もし「〈大人〉」に「なれなければ滅びるだけ」だと示す物語として、人々の目に移り、読解されてきた小説だった。もちろんそれは理のないことではなかった。しかし、私は、そしておそらく私たちは、別の読解を欲しているはずなのだ。

 そのために、ここでは、「滅びる」ことを肯定することも厭わないかのように思われる、幾つかの著作、主としてクィア理論家の著作を参照していく。もちろん、「滅びる」ことの肯定といっても、いわゆる逆張りがしたいのではない。むしろ、成熟して生き残るか成熟せず「滅びる」かという、こんな二大政党制じみた二者択一は馬鹿げていると考えたいのであり、だから、そんなことをすれば「滅びる」ぞ、賢い選択をしなさい、といった声に、一旦は抗ってみたいのである。しかし、そもそも私たちは、「滅びる」というのはどういうことなのか、わかっているのだろうか。

2、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』における成熟の教え:成熟の勝利?

 改めて確認しよう。桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は一見、語り手である13歳の少女、山田なぎさの成熟を物語った小説であるように映る。実際、この小説は次のような述懐で結ばれる。「藻屑は親に殺されたんだ。愛して、慕って、愛情が返ってくるのを期待していた、ほんとの親に。/この世界ではときどきそういうことが起こる。砂糖でできた弾丸[ルビ:ロリポップ]では子供は世界と戦えない。/あたしの魂は、それを知っている」(『弾丸』204頁)。あたかも、子供たちは世界に、こう問い詰められているかのようなのだ――すなわち、あなたは「〈大人〉になれるのか、なれなければ滅びるだけの話だが」(『少女民俗学』249頁)、と。

 一旦あらすじを確認したい。なぎさの学級に転入してきた少女、海野藻屑は、自らを性別のない人魚だと名乗り、父親・雅愛の虐待で自身についた痣(創傷や瘢痕)を人魚に特有の皮膚病だと言い張るといった奇矯な言動を繰り返していた。母が雅愛と離婚して彼と二人暮らしである藻屑と、父が海難事故で亡くなり母と兄・友彦との三人暮らしであるなぎさは、それぞれの抱える生き辛さ、ままならなさもあってか、互いに接近していく。そしてある日、なぎさの「逃げようか」(『弾丸』174頁)という言に、「いいよ。山田なぎさが逃げたいのなら、一緒に行く」(『弾丸』176頁)と藻屑が返し、二人は一緒に、「とにかく、ここじゃない[……]あたしも藻屑も自由になる」(『弾丸』178-179頁)、そんな場所へと向かう逃避行を試みるのだが、その準備のために自宅へと戻った藻屑は、雅愛によって惨殺されてしまう。その後、雅愛の凶行を覚ったなぎさは、友彦とともに山へ登り、遺棄された藻屑の寸断された死体を発見する。友彦は逮捕される。

 藻屑が殺された事件を経て、なぎさとその周囲は次のように変化したと語られる。「もう、誰も、砂糖菓子の弾丸を撃たない。//背後からミネラルウォーターを投げつけてきたり、痣を汚染だと言い張ったり、しない。//どこまでも一緒に逃げようなんて、言ってくれない。//あたしの髪はどんどん伸びて、背も伸びてきて手足が長くなって、男っぽい容姿に変わっていく友彦と交代するように、女っぽい感じに変わってきた。ある日鏡を見ると、ロングヘアで線が細かったころの友彦に妙に似ていて、うぉっと思った。/あたしは高校に行く。うちは裕福じゃないからたいへんだけど、放課後にバイトをして、卒業したら就職して、なんとかなるだろう」(『弾丸』202-203頁)。なぎさが「似て」きたという当の友彦は、事件の後、髪を切り、「外に出るから肌も少しに日に焼けていて、肩幅とかも広くなってきて、なんていうか、知らない普通の男の人みたい」(『弾丸』201頁)になり、そして、自衛隊に入隊する。あたかも、なぎさと友彦は、藻屑の死を契機に大人になったかのようである。そしてこの場合の大人になるとは、つくり話や幻想に縋らずに生きるようになることでもあるが、それのみならず、男は男らしく、女は女らしくなることとも、同一視されているかのごとく感じられる。

 このような観点から読むならば、本作において、成長あるいは成熟、つまり大人になることは肯定的に示され、逆に、大人にならないことは否定的に示されていると解釈できるだろう。藻屑が殺されてしまった後、藻屑となぎさの担任であった教師は、警察署の一室で、このように嘆く──「担任教師は頭をかきむしって、苦しそうにうめいた。/「あぁ、海野、生き抜けば大人になれたのに……」/絞り出すような声。/「だけどなぁ、海野。おまえには生き抜く気、あったのか……?」」(『弾丸』199頁)。この文言は、あたかも成熟を拒否するという選択の、未来の無さをほのめかしているかのようにさえ響く。いくら幻想に縋っても、それだけでは生き抜けない、生き残れない。だから藻屑は大人になれず死んだのだ。こんな類の陰鬱な説教めいた含みが、そこに混じってしまっているようにも思われる。ひどく意気阻喪する読み方だが、この小説は、性と現実を拒否して幻想に縋っていた子供が、幻想を放棄して大人の男や女になって成熟するか、さもなくば、つくり話の通りに死んでしまう、そういう運命を描いた物語だと解せてしまうように思える。――父親に海野藻屑と名づけられた少女は、父親の歌う楽曲の歌詞に登場する人魚のように、殺されてしまう。――そして、バラバラになる。あたかも、なぎさの父親の乗っていた船が、その父親ごと海の藻屑と化したように。――人魚を名乗る藻屑は、なぎさの父親、山田英二に「海の底で会ったよ」(『弾丸』64頁)と言い張っていたのだった。

 しかし、この成熟の教えは、別のことにも気づかせてくれる。一見、幻想を否定し、成熟を志向しているように描かれている――「砂糖菓子の弾丸」ではなくて「実弾」を欲している、と小説の序盤から語っていた――なぎさもまた、幻想に縋る子供であったことに、少なくとも部分的には、そのようにも描かれているということにである。「あたし自身のありきたりな不幸と藻屑の藻屑らしい非凡な不幸には一つの共通点があった。あたしたちは十三歳で、あたしたちは未成年で、あたしたちは義務教育を受けてる中学生。あたしたちにはまだ、自分で運命を切り開く力はなかった。親の庇護の元で育たなければならないし、子供は親を選べないのだ。あたしはこの親の元でみんなよりも一足も二足も早く大人になったふりをして家事をして兄の保護者になって心の中でだけもうダメだよ、と弱音を吐いてる。藻屑も行けるものならばどこかに行くのかもしれない。大人になって自由になったら。だけど十三歳ではどこにも行けない」(『弾丸』147頁)。ここに描かれているのは、「自分で運命を切り開く力はな」い「未成年」の一人としての、なぎさの姿である。この小説は、選べない環境がもたらす「不幸」を堪えしのぐために、幻想に縋る「未成年」たちの姿を描いてもいるのだ。

 小説に描かれる、幾人もの「未成年」たちの姿。――例えばそれは、三年前に「押しかけてきたような感じで強引に部屋に入ったクラスメートの女の子とのあいだになにかあった」末に外出しなくなり、「魔法辞典とかいうわけのわからない本」などに没頭しながら「 "神の視点" みたいなもの」を取ろうとする友彦の姿である。そしてまた、そんな風にして、父を亡くした母の「自慢の息子」の立場を降りてしまった兄の友彦に代わって、一家の担い手を演じようと無理を重ねつつ、「待遇は男子と変わらないし、中卒でも関係ないし、すぐに給料もくれる」という自衛隊に入り、兄のことを「一生、面倒見る」と語る山田なぎさの姿である。――なぎさの「実弾」と藻屑の「砂糖菓子の弾丸」は、一見、正反対にも見えるが、しかし、なぎさの計画する自衛隊への入隊も一種の幻想に過ぎない。「実弾」さえ手に入れば、つまり自衛隊に入隊しさえすれば「一人きりで過ごせる場所」を手に入れることができるという幻想に、なぎさは縋っていたのである。それもまた、いわば、「実弾主義」(『弾丸』18頁)という名の「砂糖菓子の弾丸」だったのだ。

 それだけではない。――誰の姿よりも、「ぼくはですね、人魚なんです」、「人魚に性別はないです。みんな人間で言うところの雌っぽい感じで、だけど人間みたいな生殖器はないので、卵をぷちぷちたくさん産みます。だからぼくにおとうさんはいません」などと滔々と述べる、海野藻屑の姿こそ、「未成年」の姿としてまず想起されるものだろう。友彦、なぎさ、藻屑。この三人とも、自力で変えることのできないような「不幸」を堪えしのぐためにそれぞれ幻想を育てている。その幻想の中で、人間であること、また男や女であることを否認している。

 とはいえ、成熟の教えを説くこの小説は、幻想が「不幸」を消し去ってくれるかもしれない、と淡い希望を残すのではなく、むしろそれが打ち砕かれるところを描いている。「砂糖でできた弾丸[ルビ:ロリポップ]では子供は世界と戦えない」のである。「あたしは蓋を開けて、海野藻屑がやっていたように顎を仰け反らせて、ぐびぐびぐびぐびっ……と飲んだ。口から水が垂れて首もとまでこぼれ落ちていく。そんなにおいしいものじゃなかった。鉱物っぽいへんな味がした。いつまでこれを飲んでものどの渇きは止まらない気がして、あたしはミネラルウォーターのペットボトルから唇を離しながら、ああ、これが海野藻屑の正体だったのだと思った」(『弾丸』200頁)。この一節は、まるで、時間の流れに逆らい、成熟に抗しても、「大人になる」ことや、男や女になることに抗しても、何にもならない、無しか残らないのだという、陰惨な諦観に裏打ちされているかのように映る。まるで、藻屑は、なぎさ(そして友彦)を成熟させるという物語の展開上、必然的に殺されてしまわれなければならなかった登場人物であるかのようだ。

 しかしながら、繰り返すが、現実に見て見ぬふりを(死ぬまで)し続けた「〈少女〉」の藻屑と、そんな藻屑の死に学んで「〈大人〉」になったなぎさ(たち)がいる、という乱暴な要約には収まりきらないポイントが、この小説にはあるはずなのだ。私たちは、違いではなく、〈同じさ〉に目を向けたい。両者の明暗ではなく、両者が分かち持つところのものに、注目したい。親が異常な人物であったかどうかといった違い、あるいは海野雅愛という異常者が父親であったかどうかといった違いで、藻屑となぎさの明暗に注目していくような見方を採用している限り、取り逃してしまうようなポイント、それこそが私たちの捉えるべきものではないか。

3、マゾヒズムと成熟:ベルサーニのマゾヒズム論から

 まず目を向けてみたいのは、なぎさと友彦という対と藻屑と雅愛という対の間に見られる、関係性の〈同じさ〉である。藻屑の遺体が遺棄されたと見られる山へ向かう途次、友彦はなぎさに「"ストックホルム症候群"」という心理状態について説明し始める――友彦の語る他の話と同様に、これは学術的というよりは衒学的な話であり、この「"ストックホルム症候群"」の説明に関して言えば、通俗心理学的であるというのが適切だろう。――友彦は語る。「誘拐された被害者というものは、自由を奪われて、考えることも取り上げられて、そのまま狭い密室で犯人と何日も過ごす」(『弾丸』116頁)、すると「犯人への同情や忠誠心」(同)が生じる。迫害が不可避であるような環境に置かれたとき、人は、迫害に納得できる理由付けをしようとする。その一環として、迫害者(が迫害を加えるに至る筋道)に、共感的にもなるというわけだ。

 さらに友彦はこう続ける。――「ぼくが考えるに、幼児虐待の被害者である子供たちも、ある種の "ストックホルム症候群" に分類される症状を発症しているんだ[……]まちがった脳の作用によって、彼らはつまらない親たちに激しい愛情を感じている。そこに悲劇がある」(『弾丸』117-118頁)。――友彦の説に従うならば、「愛情表現と憎しみの区別がつかないらしい」(『弾丸』25頁)と見られ、「ぼく、おとうさんのこと、すごく好きなんだ」(『弾丸』59頁)、「好きって絶望だよね」(同)と語る藻屑を、「ある種の "ストックホルム症候群" 」に陥っていると解することは容易だろう。

 しかし、藻屑だけでなく、ひきこもりの兄を「現代の貴族」と呼び、自身の高校進学さえ断念して扶養しようとしているなぎさもまた、「ある種の "ストックホルム症候群" 」に陥っていたのではないか。なぎさが「あたしの中だけでつじつまのあっている "おにいちゃん教" みたいなものが、人に一言でも否定的なことを言われたらがらがらと崩れてしまいそうで、こわかった」(『弾丸』94頁)と漏らしている一節を踏まえれば、これはそう突飛な読解ではない。なぎさはなぎさ自身が思う以上に藻屑に似ている。森を歩きながら、友彦によるこの(通俗)心理学講義を聴いて、なぎさは「おにいちゃんが誰の話をしているのか、わかったよ」と答える。しかし、それが、藻屑のことを指すのか、なぎさのことを――あるいは、さらにまた、他の誰かのことを――指すのか、そして友彦が誰について話しているとなぎさが思ったのかは、作中では明かされないままだ。実は、「未成年」である誰もが、この意味での「ある種の "ストックホルム症候群" 」に陥っているのではないか。

 この「ある種の "ストックホルム症候群" 」は、ある種のマゾヒズムを連想させる。アメリカ出身のフランス文学研究者にして、クィア理論の先駆ないし異端でもある文芸批評家、レオ・ベルサーニは、我々のセクシュアリティの根底にマゾヒズムがあるのではないかと論じている。例えば『フロイト的身体』(長原豊訳、1999年9月、青土社)においてベルサーニはこう述べている。「発生的に言えば、セクシュアリテは挫折の経験から切り離すことができない。言い換えれば、小児における欲動充足の可能性は、つねにそして始めから、敗北で終わる現実と切り離すことができず、それが苦痛の現実なのである。[……]その構成という点から言えば、それ[引用者注:人間のセクシュアリティ]は、ある種の心的動揺、自我の統一性と安定性に圧し懸かかっている脅威と理解されねばならない。この脅威にあっては、マゾヒズムだけが、すなわち成熟という進化を凌ぎ征服することが、私たちが生き残ることを許すのである」(『フロイト的身体』98頁)。刺激に無抵抗でさらされるほかない幼児は、成熟していくことに伴う自らの無能力、ままならなさを堪えしのぐために、マゾヒズムを培う、というのだ。おそらく、ベルサーニのマゾヒズム論は、バンデューラの説く自己効力感や、エリクソンの説くアイデンティティの確立/拡散などの議論と、関連付けることができる。

 つまり、おそらくは、こういうことだ。幼児は、自らを自律した存在、自己決定できる存在と捉えるには、あまりに頻繁に不如意を覚えざるをえない。それゆえ、無力感の中で自分があるというこの自覚を失うことのないように、幼児は、この不如意の苦しみを、自ら望んで得たものと(半ば意図的に誤認)するような、マゾヒズムを培うのである。ベルサーニは、精神分析家アダム・フィリップスとの共著『親密性』(檜垣立哉+宮澤由歌訳、2012年7月、洛北出版)でも、前著で展開した議論を次のように再説している。「幼児はマゾヒズムによって、自己崩壊的な刺激の時期と、抵抗し防御する自我とのあいだにあるギャップを克服することが可能になる。自己が崩壊することを愛するのは、自己保存の戦略なのである」(『親密性』196頁)。ベルサーニは、精神分析の議論を、自己と外界すなわち他者との敵対関係が構築されていく過程として捉える。そして、この過程の中で、他者(が代表するような外界というもの)からの刺激が糧へと変わりながら――自己を崩壊させる脅威だったはずのものが、自己の欲するもの、享受の快を伴うものに変わる――マゾヒズムとともに自己が形成されていく、と論じているのである。

 受苦を自己の核心として引き受けること。このように読む限りで言えば、ベルサーニの議論は、友彦の語る通俗心理学の洗練されたバージョンになっている。痣を汚染と言い張るとき、藻屑は、人魚であるような世界を生きる条件として、雅愛に加えられる暴力を、引き受けなおしている。なぎさの「あたしの中だけでつじつまのあっている "おにいちゃん教" 」に合わせて述べるなら、藻屑は、藻屑の中だけでつじつまのあっている "人魚教" の世界を生きている。もちろん、藻屑が雅愛に打擲されるような仕方で、なぎさが友彦に暴力を受けているわけではない。しかし、「兄は貴族なので」(『弾丸』160頁)と言い張り、破滅的な奉仕に勤しむなぎさもまた、自身のアイデンティティの核心として構造的暴力を引き受けなおそうとしていると言えよう。藻屑となぎさの自己の核心には、不可避であった受苦、しかし、幻想にたよって、自ら進んで引き受けたかのように捉えなおされている受苦が、抱え込まれているように映る。「自分で運命を切り開く力」のなさ、「どこにも行け」ず、選んでもない環境を受け入れねばならない、「未成年」たちのままならなさが、「未成年」たちに「ある種の "ストックホルム症候群" 」に分類される症状を発症」させる、というわけだ。あたかも、この「ある種の "ストックホルム症候群" 」は、ベルサーニ的なマゾヒズム――外界からの刺激に抗しがたいがゆえに、それを敵からの攻撃として受苦しながらも、また、それによって崩壊することを望むような自己をも、幻想とともに構築するという手品めいた解決策(これはもはや一種の神義論の様相を呈しているかもしれない)――の、派生物であるかのように映る。――あたかも、私が苦しむのは必然で、それを望んでもいる、とでも言うかのように。

 なぎさと藻屑の〈同じさ〉、なぎさが「あたし自身のありきたりな不幸と藻屑の藻屑らしい非凡な不幸には一つの共通点があった」と語るところのもの、それは、「ある種の "ストックホルム症候群" 」すなわちある種のマゾヒズムと言えるのではないか。もしそうであるならば、例えば父親に虐待される少女(藻屑)であるとか、例えば父親が早逝して経済苦にさらされる少女(なぎさ)であるとか、「ありきたり」であろうが「非凡」であろうが、特定の「不幸」を被った子供の、その異例性に思考させられるような物語としてではなく、まさに選べないような仕方でこの世界に生まれてきたはずの全ての子供たちのための物語としても、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は読むことができるのだ、と言えるようにもなるかもしれない。

 いみじくも、「この脅威にあっては、マゾヒズムだけが、すなわち成熟という進化を凌ぎ征服することが、私たちが生き残ることを許す」といったベルサーニの文言は、この小説の次のような一節を想起させる。「生き残った子だけが、大人になる。あの日あの警察署の一室で先生はそうつぶやいたけど、もしかしたら先生もかつてのサバイバーだったのかもしれない。生き残って大人になった先生は、今日も子供たちのために奔走し、時には成功し、時には間に合わず。そして自分の事については沈黙を守っている。/あたしもそうなるかもしれない」(『弾丸』203頁)。なぎさと藻屑の担任教師にさえも、ある〈同じさ〉が見出される――「未成年」の「サバイバー」としての。こうして、不可避に「消費社会」を生きざるをえない「誰もが、かわいくてかわいそうである」という大塚英志の時代診断は、生まれを選べない「未成年」たちの「不幸」とそれゆえのマゾヒズムという問題に重なってゆく。汎少女論はここで、汎マゾヒスト論と接続される。

[中編に続く]



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