イルカ取引き

私と施設長の間には、ささやかな秘密がある。
 機嫌をとってくれる若い女の子たちと、きゃっきゃうふふすることに余念のない40代の施設長。対して、本音と建前を使い切れず、スマートに仕事をこなせない隅っこ介護士の私。おまけに隠れてこそこそライティングの副業をしたり、俳句の投稿をしていて不真面目さがにじみ出ている。
 おかげさまで一定の距離を置いてもらっていて、普段仕事の会話しかしない。
 しかしG1シーズンになると、我々の関係は一変する。
 管理室にはスタッフ用の棚があって、私の引き出しにはスポーツ新聞が投入される。クラシックやグランプリともなると、新聞の上に、イルカのイラストが描かれた封筒が追加される。中身は、買い目が書かれたメモ、それに伴った軍資金。依頼を受けた私は、即パットで馬券を購入する。手数料は新聞と引き換えというわけだ。
 穴狙いの馬連ばかり買う施設長が儲けることはほとんどないが、年に一度ぐらいは奇跡が起こる。
「やっぱりセンスの塊は違うっすねえ、いつも相手が来ないけど」
「いやいや~最低人気にぶっこむ吉田さんこそセンスの塊でしょ?」
 そんなことを言いながら奇跡の翌日には、おごってくれたイチゴ牛乳を一緒に飲む。
 私はこの一連の流れを、封筒のイラストに愛着をこめて『イルカ取引き』と呼んでいる。

 このイルカ取引き、今まで順調に執り行われていたのかというと、まったくそうではない。過去に二度、大きな危機に直面していた。
 一度目は、ブラストワンピースの有馬記念だ。その日は生憎、施設長は休みだった。レースギリギリまで買い目が定められないときは、事前にお金だけを受け取り、職場の電話で買い目を教わることになっていた。それが良くなかった。
 電話口で、彼は絶対ワイドと言っていた。珍しいなと思ったがそのまま購入し、見事的中した。勝ち金を封筒に入れ直し、施設長の引き出しに戻す。翌日、施設長はしきりに首をかしげている。深刻な表情で近づいてきて、とうとう「馬連にしては安すぎる」と言った。その後、我々は喧嘩のような話合いをし、しばらく口を利かなかった。
 最終的には即パッド購入画面をツイッターの専用アカウントに残し、相互確認をとれる改善策を施行。ここでもアイコンはイルカだ。いつしか私のなかでイルカと稀に飲むイチゴ牛乳は、特別なものになっていた。
  
 それなのにも関わらず、二度目の危機は私が引き起こす。
 きっかけは、利用者のおじいちゃんから受ける暴力だった。ベッドの上で汚れた衣類の交換を拒絶し、少しでも服に触るようならこちらの腕をぎゅっと掴んで、捻じ曲げる。私の場合、真っ先に眼鏡を奪われて遠くまでぶん投げられる。視力を弱らせたうえで今度はエプロンをちぎろうし、抵抗している間に気が付くと、排泄物まみれの爪が、私の首筋に食い込んでいた。
 負傷した私を見つけて施設長は「大丈夫?」とだけ聞いた。「怖かったです、つらかったです!ほら見てくださいよ」と同情を誘いたかった。わざわざ襟をずらして?胸元まで引っかかれた不潔な傷を?(こうなる前に、応援を呼べば済む話だったね、居室のコールボタンは何のためにあるの?)そんなことを言われる可能性すらあった。
「…大丈夫です。でも」
「でも?」
「こんなとこ今すぐ辞めてやりたいっす。残業も多くて文章が書けないし、しんどいし」
 違うそんなことを言いたいんじゃない。いつもそうだ。私はいつも、本音と建前をうまく使えないんだ。
「実は、友達から誘いがあるんです。本格的にそっちを検討しますわ」
 誘いがあったのは事実だった。でも、勢いで言ったに過ぎなかったのに。
「そうだね。自分の人生だから、俺は止めないよ」
 ゲートが勝手に開いて、急かされる競走馬の気分だった。これではもう引き返せないではないか。
 翌日は、オジュウチョウサンが出走するステイヤーズステークスの日だった。私がオジュウのファンであることを思い出したのだろう、出勤して引き出しを開けると、朝刊が忍ばせてあった。G1でもないのに、イルカの封筒も置かれて。
 絆創膏が、三枚入っていた。

 利用者に投げられ、歪んだ眼鏡を直すために地元のイオンに行ったとき、ふと、くじ引きの箱を持ったお姉さんと目が合った。乗馬クラブの体験割引券が当たるくじだそうだ。
「気晴らしも、大切ですよね」
 何気なく言われた一言が、不思議と心に沁みた。体験乗馬の日程の調整がつかないので小雨の降る夕方、行うこととなった。
 寒さに負けぬよう雨具を装着して挑む。競馬は好きだったが、まともに触れ合ったことない私には何もかもが新鮮だった。馬にまたがるとき、手綱と一緒に鬣を握ること。褒めるときはこれでもかというほど、首筋を叩くこと。鞍の上から見える風景、ぐらつき、馬の息遣い…知らないことがたくさんあって面白かった。私のはしゃぐ姿を見て、担当していたインストラクターのお兄さんが「これならすぐ、スーパージョッキーですね」と笑った。建前であってもうれしかった。
「吉田さん、馬の視野が350度なのは知っていますか」
「あ、どこかで習いました!」
「馬は前を向いて歩いているようで、しっかり僕達を見ています。馬は、僕らのように言葉を使えません。だから、吉田さんの素振りや態度をしっかり見て、どんな人か知ろうとしてるんです」
 言葉のない世界での信頼関係。とても素敵ではあるが、築きあげるのは容易ではないだろう。言葉を使っていても、私なんかうまくいかないのに。本当に競馬に携わる方々はすごいし、かっこいいと思う。
「この子と仲良くなるにはどうしたら良いですか?」
「素直な子だからなぁ・・・やっぱり素直でいることじゃないですかね」
「素直、きびしいな」
 いつの間にか雨は止んで、優しく白い月がのぞいていた。

 雨具を着ていても、結局は寒かった。帰りがけスーパー銭湯に寄って、傷口がひりひりする首筋ごと湯舟に沈めた後、マッサージチェアに癒されていると、ツイッターの通知が鳴った。
 施設長からのメッセージだった。
 今まで買い目か、即パットの購入履歴の画像しか展開されなかった殺伐と画面に、初めて長文の文章が表示されていた。
 【最後になりますが、私にとって吉田さんは必要な人材です。辞めて欲しくないし、もっと一緒に仕事がしたいです。少しでも残る気があったら残ってください】
素直になるべきは私の方なのに、なんてことをしてくれたのだ。本音だと信じたくてしかたない言葉に、不覚にも涙腺がおかしくなった。
 【私も、100%辞めたかったわけじゃないです。本当にすいませんでした】と文章を作りながら、こう加えた。 
 【皐月賞も、ダービーも】そうさ、半年ぐらいならまだ私も、この職場でなんとか踏ん張れるんじゃないか?【私に、新聞を持ってきてください。必ず馬券を買いますから】
 返信はほどなくしてきた。
 【来年の有馬記念も、よろしくお願いします】
 考えは見抜かれていた。
 自販機に、残り一本のイチゴ牛乳が売られていた。私は苦笑しながら、そのボタンを押した。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?