スノードラゴンの花束


 老人ホームの洗濯室を、私は競馬の予想室にしている。
 テーブルにわざと洗濯物の山を築く。その陰に隠れるようにA4サイズのホワイトボードを持ってきて、スマホでJRAのサイトにアクセスする。ニヤニヤしながら、明後日に迫った、高松宮記念の出馬表を確認する。 
 介護の現場は残業がつきもので、とにかく拘束時間が長い。予想するプライベートな時間すら削がれてしまう。これは苦肉の策なのだ。全職員よ!あぁ許したまえ!
 私は、ホワイトボードに内枠の馬の名前を書いた。それをたった今、派遣で入った新人の高野さんに目撃された。嘘だろ、まったく気配を感じなかった。
 色白で病気のような雰囲気をまとった彼女は、小さく失笑していた。仕事をサボっていたことをとがめられた私は「いやぁ、これは深いわけがあって」と弁明を始めようかと思ったが、高野さんは「続けてください」と、洗濯物の山を丁寧に壊し始めた。
 しぶしぶ、ホワイトボードを扉に貼り戻し、作業に戻った。
 一瞬高野さんが、ホワイトボードに目をやった。
「スノードラゴン、お好きなんですか?」
 驚いた。ほぼ無口で、真面目そうなスタイルのお姉さんから、競走馬の名前が飛び出すとは!
 私の競馬仲間は、二人いる。一人はここに入居している佐藤さんというおじいちゃんで、私は師匠と呼んで慕っている。もう一人はここの施設長。私の兄弟子に当たる。私がメインレースの5分間、師匠の部屋でこっそり一緒にラジオ中継を聞くことを容認してくれる、背高のっぽの上司だ。最近では師匠の認知症が進んで、自らラジオを動かすことはなくなった。それでも私は師匠の部屋に通う。ラジオを聞くと、師匠はとても幸せそうなのだ。
 G1 ともなると、いつの間にか、私の手の届くギリギリの棚の上にわざとらしくスポーツ新聞が置かれる。私よりも早く師匠の部屋に施設長が登場していることもある。三人で実況に耳を傾けると、ラジオの雑音はとても心地良いものとなる。
 そんな生活に、四人目の秘密の仲間が増えるかもしれない。これは吉兆だ!
「そうなんですよ!もうね、やっぱり白くてかわいいですよね」
「たしかに、かわいいですよね」
「ですよね!」
 ほかの職員とはまったく打ち解けていない彼女の、唯一の牙城を崩したように感じ、声が大きくなった。
スノードラゴンは、中央競馬最高齢の十一歳だ。こちらも師匠の愛称を持つ、伝説の老兵。とうとうラストランを迎えることとなった高松宮記念では、藤田菜々子騎手の騎乗で注目が集まっている。高野さんもきっと師匠の応援馬券を買うのだろう。質問が山ほど浮かんだとき、高野さんはこう言った。
「やっぱりいろいろ育てているけど、慎ましいですよ、あれは」
 え、高野さんは生産者サイドの人間なのか?馬は、そもそも慎ましいものなのか?
「馬を育ててるん…ですか?」
「え、馬?」
「違うんですか?じゃ、何?」
「花ですよ」
「え、花?」
「花」
 そう言って、高野さんが私の前で、初めて笑顔になった。
 
 競走馬のなかで『ドラゴン』と名のつく馬を思い返すと、イケドラゴンや、地方馬ではドラゴゲートなどがいただろうか。きっと調べれば多くのドラゴンが見つかるはずだ。どの馬の場合でも、ドラゴンは龍を意味しているに違いない。てっきり、スノードラゴン師匠の場合も『雪の龍』だと思っていた。どこかのグゲームに出てくるのような、雪属性の幻想的な名前ではなかったのか。
 たしかに、スノードラゴンの紹介ページには『観葉植物であるジャノヒゲの品種』が由来と記されていた。思い込みとは偉大だ。昔は芦毛の馬は走らないなんて言われていたらしいじゃないか。面白いほど、常識は覆されていく。論理を超えて胸を熱くする一瞬が競馬にはあって、私はそれを渇望している。
 スノードラゴンの知られざる事実が、就寝前にじわじわと思い出され、言いようのない興奮が、春の宵に溶けていった。
 
 春のお彼岸に合わせて、施設が管理している無縁仏をきれいにする。手の空いた施設長も一緒だ。明日の高松宮記念の予想談義をしながら、墓の手前の雑草を抜いていく。
 昨日の高野さんの一件に触れると、施設長は驚いていた。
「あの人って、そんなに笑うの?俺んときなんか、挨拶ぐらいしかしないよ」
 スノードラゴン師匠が花だったことの驚きではないんだな、苦笑した。
「人徳の違いでしょうね」
「明日新聞持ってこないよ?」
 花受けの水を取り替えて、新しい仏花を挿す。主に菊で構成された、花束。我々の師匠である佐藤さんには身寄りがないので、いつかこの墓に入ることとなる。棺の中に何を入れるかは、兄弟子と相談済みだった。師匠が大切に保管している宝塚記念の馬券だ。師匠が昔、最愛の人からプレゼントされた馬券。天国にも必ず持たせてあげるんだ。
 ラジオの相続権は、現在不明である。そのときが来たら、ジャンケンで決めるのだろう。
 どうせなら、師匠の一番好きな花を棺に入れてあげたい。認知症の進んだ師匠から、本音を聞き出せるだろうか。
 線香を燻らせ、見たこともない利用者へ向けて手を合わす。みなさんは菊やユリが好きだったんですか?本当は何の花が欲しかったんですか?
自分だったらどの花が良いだろう。例えば、自分が人生に一度だけ、大切な誰かから花束を受け取るとしたら?
 私の場合、白い花が欲しい。障害界の名ジャンパー、アップトゥデイト。引退しても個性的なゴールドシップ。もちろんスノードラゴン師匠やオグリキャップもひっくるめて、私は芦毛が好きだから。
 それ以上に愛しているのは、オジュウチョウサンだ。勝負服である臙脂色にチェックの柄を包装紙を作って、白い花たちを包んでみよう。白い花は何にしようかな。昨日話していたスノードラゴンにしようか。そんな妄想をしていみると、施設長に質問された。
「んで、スノードラゴンってどんな花なの?」
「白くて、慎ましいって、高野さんが言ってたけどよくわかりません。あ、明日聞い…」
「あん?」
 名案を思いついた。
「明日、招待しませんか?」

 高松宮記念当日。棚にはしっかりと新聞が置かれている。スノードラゴンはすがすがしいほど無印だ。ラストランぐらい、はなむけの印を打っても良いのではないか?
 私は、すべての予想家を代表して、ホワイトボードいっぱいに【◎スノードラゴン】と記した。来ないことぐらいわかっているさ。それでも好きでしょうがないのだ。
 出走時間が迫っていた。トイレから出てきた高野さんを見つけて腕を掴んだ。「吉田さん、どうしたの?」と驚く彼女に、私は「サボりに行くだけ!五分だけ行方不明になるだけです!」と諭した。 全力疾走するのは、何年ぶりだろう。思いのほか気持ち良い。馬ってこんな気分なのかな?」
 途中、お局様が白けた顔で「ぼた餅作ったから、休憩室、後で寄んなさいよ!」と言って私たちを見送った。ゴールは目前だ。
 目的の部屋を開くと、ベットに座りながら、口の周りをあんこまみれにしている老人がいた。師匠だった。私たちに気付くと「おう、小栗!遅かったな」と、かつて想いを寄せた人物の名を呼んだ。
師匠は昔の記憶で、時折生きる。
高野さんは困惑していた。遅れて入ってきた施設長が、ぼた餅が二つ載った皿を、そっと私に渡した。
「よかったな師匠!今日は小栗さんの友達も一緒だよ」
「友達?」
高野さんが完全にひるんだ。
「今日は、教えてくれた花が走るんですよ。スノードラゴン。よかったら応援してください、これもきっと何かの縁」
 一つとって頬張る。お局様の作ったぼた餅は、ちょっとごそごそしているが、美味しい。そして残った一つは、高野さんへ渡した。高野さんは一口食べて「うまっ」と、つぶやいた。
 
結局、高松宮記念の実況では、スノードラゴン名前はさっぱり呼ばれなかった。残念な結果だったが、高野さんは初めての競馬体験で、少しだけ高揚しているようだった。
あのラストランから四か月たった今も、師匠の好きな花はわかっていない。しかし、一つだけ、わかったことがある。スノードラゴンは花束には向いていない。鉢植えで販売されていることが主であると。
 あらためて、思い込みとは偉大だなと思う。すべての花が花束に向いているわけではない。馬だってそうだ。芝で未勝利でも 、ダートや障害で無双する者だっているじゃないか。人だってきっとそうなのだろう。
スノードラゴンの追加情報は、最近、地元のホームセンターの花売り場にいた店員に教えてもらった。

店員は私の友人である、高野さんという。

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