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パンを求めて暴動するとき、人間は馬鹿になるという話

暴力を徹底的に排除した世界が、権力者や既得権益者にとって都合がいいんだよ、だから民衆の側は舐められないように暴力という手段を留保しなくちゃいけないよ、という話はわかる。

白饅頭さんのnoteは、ときどき、こういう「話はわかるけど、なんだかなあ」というモヤモヤを提供する記事があって、それはそれで魅力なのだけれども、いちおう反論というか、捕捉めいたものを書いておきたいと思ったので少しだけ。

暴力性を抑えられないほどに猛り狂った人間は、たいていの場合、馬鹿になる。

例を挙げよう。

フランス革命前夜、飢饉でパンの価格が上がり、生活ができなくなったパリの市民達は暴動を起こした。

街路を埋め尽くした群衆は、破壊と私刑を繰り返しながら、最終的に向かったのはどこだったか。

パン屋である。

「街灯に吊せ」をスローガンに暴走を続ける民衆達は、1789年10月21日、パン屋のドニ・フランソワを店から引きずり出し、街灯に吊した。

理由は、彼の店にパンが無かったから、である。

もちろん、パン屋だって売れるパンがあるなら売りたいだろうが、飢饉が続いたパリ市には、売るべきパンがなかったのである。

パンを求める民衆が、パンを焼く職人をリンチして殺してしまったのだから、これほど馬鹿げた愚行はない。


食料不足で起こる暴動の際、一番に大衆はパンを求めるのだが、なんとそのやり方は、パン屋を破壊するのが常である。この例は、今日の大衆が、彼らを養ってくれる文明を破壊し、広範な複雑な規模で反対する行動の象徴として使うことができる。

オルテガ・イガセット『大衆の反逆』



金の卵を生むガチョウの腹を割いた農夫のように、欲望と暴力に狂った人間の群れは、想像を絶するような愚かさを露呈する。

潜在的な民衆の暴力的性質が、権力者の横暴を防止する抑止弁になるという話はよいが、実際に発露された大衆的な暴力は、たいていの場合、社会を狂わせる結果にしかならない、ということは歴史の教訓だ。

それこそ、戦前の青年将校たちが引き起こした事件が、軍国主義への道を開いたように。

昔、白饅頭氏のイベントの締めで、私は、

「私たちの社会に革命は必要ない。必要なのは、日々の小さな改善の、根気強い積み重ねだ」

と述べた。

報われぬ思いや、社会にはびこる不正義への怒りは、一気呵成に社会を変えてくれる革命を求めがちだ。

いま、社会では、悪を徹底的に叩きのめす、「直接的行動」を期待する機運が密かに充満しつつあるように見える。

結果的に、統一教会の闇を暴き立てた、という理由で、山上氏のテロ行為を密かに賞賛する人々があらわれつつあることも、その兆しだと思う。

けれど、社会を暴力で変えるという発想は、最後は必ず陰惨な結果を生む。

これは私の霊感だけれど、本当に近いうちに、狂える暴力的変革衝動が、取り返しの付かない悲劇的な事件を起こしそうな気がしている。

社会を本当に良くしていくのは、暴力ではない。

暴力を振るうことは勇気でもなんでもない、卑怯な行為だ。

少しずつでも社会を前進させていくのは、明日の社会を今日よりほんの少しでも良いものにしていこうという、一人一人の善意と努力の積み重ねであると、私は考えている。

以上

青識亜論