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毒親の判定基準

自分の親は毒親なのか?と判断しかねている方のために、超簡単な判定方法を教えます。

毒親の定義については過去の記事(「毒親の定義とは?」「私の考える毒親の定義」)をご覧下さい。

1. 私の考える「毒親判定基準」

自分の親が毒親かどうかを判断する最も簡単な判定基準は、「子供が毒親だと感じたら毒親」です。
とてもシンプルでわかりやすいですよね。

毒親の定義も曖昧ですし、精神科医やカウンセラーなどの専門家でも毒親かどうかの判断を下すことはできません。
(そもそも「毒親」と判定されたところで、何の効力もないので当然ですけれども)

それならばいっそのこと、「子供が毒親だと感じたら毒親」でいいのではないかと思います。

2. 判断基準の理由

それは、『あまりにもプライベートすぎる問題だから』です。
家庭は世間から隠された個人的空間であり、そこには非常に密接な人間関係をもつ小さな社会が存在します。
そこで起きる出来事は高度にプライベートなことです。家庭での出来事を公の場に持ち出して、平等・公平な判断をすることはそもそも不可能だと思うのです。

公共の場での出来事であれば、平等・公平な判断がなされるべきです。
公園のベンチはみんなのものです。そこに落書きをした人がいれば、誰であっても怒られてしかるべきです。Aさんは怒られるけど、Bさんは怒られない、ということはないです。

しかしながら、家庭の中は違います。各家庭でルールがあり、習慣があり、価値観があります。
1日中ゲームをやっていても叱られない家庭もあれば、ゲームの類は一切禁止の家庭もあるでしょう。

さらに言えば、叱らない親がいい親とも限りませんし、禁止する親が悪い親とも限りません。
結局は「本人がどう感じるか?」に尽きるのではないでしょうか。

ゲームの制限時間に関して、子供の頃は納得できなくとも、大人になって「親の言っていたことは自分のためだった」と思えるのであれば問題ないと考えます。

反対に、大人になっても「どうしてゲームを買ってくれなかったんだろう」とか、「どうしてゲームよりも勉強が大切だと教えてくれなかったんだろう」と思うのであれば、それは親の独りよがりだった可能性があるということです。

家庭と公共の場の違い


家庭で起きた出来事について、平等・公平な判断ができない理由を2つの事例とともに説明します。

3.平等・公平な判断が不可能な例①

例①:ぬいぐるみを捨てた親は毒親か?
「私の親は毒親だ。なぜなら私のぬいぐるみを勝手に捨てたからだ」

おそらくほとんどの人が「それくらいで毒親と呼ぶの?」と思うでしょう。
また買えばいいじゃない。そのくらいで怒らなくても、と思うかもしれません。

では、そのぬいぐるみは赤ちゃんの頃から大事にしているものだったらどうでしょうか。
クタクタになっていて、ほつれや穴のひとつひとつに思い入れがあるとしたら…。

本人にとっては人生の苦楽を共に過ごしてきた、唯一無二の「ライナスの毛布」なのです。
(※ライナスの毛布とは、スヌーピーのライナスというキャラクターが大切に抱きかかえている毛布のことです。ご存知でない方は検索してみてください。)

それを捨てることが子供にとってどれほど苦痛を伴うことかわかっているのに、「わざと」「無断で」捨てたとしたら?

ライナスだったら半狂乱になってしまうかもしれませんね。
ぬいぐるみや毛布でなくとも、趣味のプラモデルや漫画・ゲームでも同じことです。
本人にとって大切な物であると知りながら、故意に破壊や処分する行為は親であっても許されないと思います。

「汚れたぬいぐるみの処分」という行為を公の場に引きずり出した場合、大した問題ではなくなってしまうでしょう。
衛生的によくないから、いい加減卒業して欲しいから、などとそれらしい言い訳を考えることは容易です。

しかし、この行為は子供にとって「自己否定」に充分なり得ます。
このような嫌がらせが何度も繰り返されていた場合、毒親だという主張は真っ当だと思うのです。

公平・平等な判断が不可能な例①

4.平等・公平な判断が不可能な例②

例2:誕生日にスマホを買ってくれた親は毒親か?
「私の親は毒親だ。なぜなら誕生日にスマホしか買ってくれなかったからだ」

さて、この親は毒親でしょうか?
スマホを買い与えてくれたのなら悪い親ではないのでは?と考えたのではないでしょうか。
「スマホ”しか”買ってくれなかった」なんて、親への感謝の気持ちが足りない!と思う人もいるかもしれません。

では、このような場合ではどうでしょう。
兄は誕生日にスマホとパソコンとタブレットを買ってもらったのに、自分はスマホだけだった。
日常生活においても常に兄は優遇され、自分はぞんざいな扱いを受けている。

欲しいスマホが超ハイスペックだったので兄のプレゼントは金額の調整をした、などの特別な理由があれば別ですが、これでは誰だって納得できません。
(そんな高価なスマホがあるのかわからないですが…)

この親はスマホを買い与えると同時に「お前は兄と比べてどうでもいい存在だ」というネガティブイメージを植え付けています。
親が何かを”与える”行為であっても、子供にとっては”否定”となり得る事例です。

もし想像できないのであれば、規模を小さくしてみてください。
兄の誕生日はホールケーキだったのに、自分の誕生日はプリン1個だったらどうですか?
さらに、それが毎年のことだったら?
「今年もプリンを食べられたんだから、いいじゃないか」と言える人はいないと思います。

与えられたものの値段や規模の話をしているのではありません。家庭という最小単位の社会の中においては、せめて平等・公平に扱われるべきだと思うのです。

「スマホを買ってもらう」という行為を公の場に引きずり出したら、それは親からの愛情のある行為になるでしょう。
しかし、そこに隠された「子供に対する否定」が含まれていて、それが繰り返されていたとすれば、毒親と判断するのに充分だと思うのです。

公平・平等な判断が不可能な例②

家庭で起きた出来事を平等・公平に判断できないとはこのようなことです。毒親かどうかを他人が判断するなんて、無粋だと思いませんか?

○○をしたから毒親、〇〇をしなかったから毒親、というように杓子定規に決めることなど不可能だと私は思います。
自分がどう感じるか? それがすべてです。
自分の親が毒親かどうか悩んでいる方は、自分自身に問いかけてみて下さい。

5. まとめ

子供が毒親だと思ったら毒親。
これが最も適切な判断基準だと私は思います。

あなたはどうでしょうか?
自分の親を毒親だと思いますか?

心の中で思うことは自由です。罪の意識や後ろめたさを感じる必要はありません。
「あなたの親は毒親じゃない!」「あなたの親は毒親だ!」
そんな外野の声に耳を貸す必要もありません。当事者であるあなた自身が決めることです。

そして一度決めたことを何度変えてもかまいません。それもまた「あなたが感じた」ことです。

「自分の親は毒親である」と認識することは、毒親から解放されるための第一歩です。
毒親からの解放とは、すなわち精神的な独立です。自分の意思決定に自分で責任を持ち、自分の人生を自分で肯定することです。
決して毒親への報復や復讐ではない、と私は考えています。

<書籍紹介>

それでもなお判断に迷っている方には、ダン・ニューハースの『不幸にする親』をお勧めします。
様々なパターンの毒親が紹介されていますので、自分の親に似ている実例を見つけることができると思います。本書を読むことで、疑惑が確信へと変わる人も少なくないでしょう。

後半では解決方法についても述べられています。もちろん読むだけで"生きづらさ"が解消されることはありませんが、毒親育ちに必要なこと・不足していることについて知っておいて損はないです。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062814811/ref=cm_sw_r_tw_dp_TZDC56TKSY2WHQ8SKQ50

『不幸にする親 人生を奪られる子供』
著者:ダン・ニューハース 翻訳:玉置悟
出版社:講談社

次回は毒のメカニズムについてお話したいと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

少しでも人生を前向きに生きるきっかけになれたら嬉しいです。いつも応援ありがとうございます!