思想の由来と責任

常々考えていることに、わたしの思想はどこからわたしの責任なのか、ということがある。
例えばわたしが、誰かが、不謹慎なことを考えたとして、それを発言したとしたら非難されて当然(発言した人の浅はかさ)なのだけど、思うことそれ自体を否定されるのは、どうなのか。育った環境だとかそういう問題ではなくて、なんとなくふと思うこと、その由来の責任は、原因はあるのか。

わたしは感情全肯定派なので自分が受け入れられないという理由でその人の考えの浅さ、人の思想を非難することはなるべくなら避けたいと思う。戦争には絶対反対だ、いじめは良くない、人を殺めてはいけない、こういう一般的な倫理観は持ち合わせてはいるし、わたしは意外と正義感が強い方なのでここを譲る気はない。それでも不謹慎な考えがふと思い浮かぶことがあるし、それに至った原因としてわたし自身が直すべきことも特にないと思う、だって思っちゃったんだから仕方がないじゃん、って。
たけど実際起こっている出来事に対して、当事者以外が口にできることなんて何もないんじゃないかと思ってしまうことがある。感情の前では理論は力をもたないし、だからこそ感情を制御するために、知識をつけるのだろうけど…。

ここで、良い悪いの判断と、悪いと考えたことを許せるか許せないかはまた別の問題なのではないかと考える。ある事柄についての良し悪しは多分それを見聞きした外野の人たちも考えるべきことだと思う。だけどその悪を許すことと、許さないこと。その部分については当事者以外が考えることは意味を成さないし、口をつぐむべきなんじゃないかと思う。なぜか、と言われると、わからないけど、そうすればもっと上手くいくんじゃないかと思うことが度々ある。

話を戻すと、ただ悪いことに、そうやって隠し続けた不謹慎な思想は仲間意識の餌になるし、それを正当化して発信する集団はあまり良いものとは言えないだろう。インターネット、それを自分の心の内を吐き出す場所と捉えることが擁護されることが多いけれど、危険な場所になっているとも思う。それは不謹慎に共感を求めて正当化する集団ができてしまうこと(しかも不謹慎な思いを抱くことは間違いではない、という主張)、そうなると問題は発言より共感かもしれないなとも思う。

何度も言うが私は嘘や虚構の美しさに惹かれる。ありのままであることを美徳とするより、わたしにはインターネットで自己プロデュースをする人の方が好感がもてる。誰とも共有できない心の領域こそ顔を合わせた相手に伝えるべきだし、そこで自分の考えの居所を見つけるべきだとも思う。

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