寂しさでいらいらしない

前回noteを更新してから1年以上が経っていた。このnoteは超個人的なはてなブログに書き留めたことのなかからもっと考えて文章にしたいことを載せているのですが、相も変わらず恋愛について考えていたら止まらなくなったところで久しぶりにここの存在を思い出し、書き出している所存です。

最近は、恋愛と呼ぶにはあまりにも拙い、変な夢みたいな関係を繰り返している。わたしがそういう一対一の関係をもつ相手は生活圏外の人に限られるので本当に日常と切り離された夢みたいだ。

誰かとの一対一の関係に名前をつけることも、誰かとの関係を既存の言葉に落とし込むことも、よく考えればそんなの必要ないはずで、だけれどやっぱり言葉のもつ利便性には抗えない。あいまいで名前のつかない関係は楽で良いけれど、それは相手が自分と同じ気持ちや考えでいることが前提になる。しかし自分の気持ちすらわからないのに相手の気持ちなど推測することはできないし、まして自分が勝手に推し量った相手の気持ちのみを前提とした関係性など気味が悪い気もする。言葉はお互いの意思の確認のためにこのうえなく便利なツールであるけれど、人と人との関係はそんな一つの言葉に当てはまるような関係ではないわけで、おそらく世の中の「恋人同士」はお互い多くの時間を過ごす中で言葉にできない部分を補い、確認しているのだと思う。けれどなんせ私はせっかちで、誰かといるときの自分がどうしても好きになれないので厄介だ。

ここまでわたしはある一つの約束を、言う・言わないの話をしているのだけど、本当に一対一の真摯な関係であれば必然的に名前がつくのかもしれないし、それはまっとうで健全なのではないか、と考えていたところで、ついこの間も「そろそろきちんとしたい」なんて浅はかな願望を抱く私は舞い上がってその約束を口にし、たちまちその関係性は破綻した。「きちんとしたい」というのは自分にとってはすごく勇気のいることで、なんとなく自分を正しいほうに戻す意識があったのが、本当はただ周りの目を気にしているだけではないのかと自問してしまい、またわからなくなった。最近は感情を自分の人格自身と切り離してかわいがっているので軽い落ち込みで済んだのだけれど、根が情熱家なので本当は思い切り当たって砕けたいし、自分ひとりでは手に負えないくらい感情を大きく起伏させたい。こういう部分からもおそらく私は恋愛に安定を求めていないのかもれないのかもしれないなと思いつつ、SNSで2人ぶんの朝食をみたり、誰かとの生活の話を聞くたびに未だにうらやましく思う自分に戸惑う。

なるべく体裁を気にせず、自分が正しいと思うように生きたいけれど、根本的にどちらがまっとうで自然なのか、そんなことで悩む自分が嫌になる。レールに沿って楽に生きたいわたしは考えることを放棄したくなるし、レールから外れそうになる自分を必死でなだめ、これで良いのだと言い聞かせるのだろう。関係性に名前をつけてもうまくいっている人たちは五万といるのにそれができない自分はもう「まっとうな恋愛」を諦めなくてはいけないのか、そんな考えから目を背け、今日も恋愛は幻想だなんて強がってみる。

追記
ロベールブレッソンの白夜の副題「愛は幻想ではない、さあ続けなさい!」という言葉を偶然目にし、そのタイミングの良さに驚いた。ブレッソンの撮る白夜は未だ観れていないけれど、ドストエフスキーの原作は大好きな小説です。愛について迷ったときには白夜を読むことを忘れていた。早速今日読み返そう。

PS.今日の文章は思い込みが強く、「どうして自分だけ…」的な悲劇のヒロイン構文になってしまったので減点です…

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