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納得すること

小さいころから、生意気な子供だったと思う。
今でもお金を頂いている相手以外に媚を売ることは絶対にしない、と心に決めている。(お金をもらっている相手に対して媚びを売るという表現は失礼かな 我慢する 主張しないというのが正しいかも 自分のお客さん、というわけでもないのでね)
小学生の頃、私と姉の両方の担任をしたことのある先生に「お姉さんはこういうときこうしてたんだけどね」と言われた。嫌味のある言い方ではなく単に私との差異を指摘しただけだったのだけど、私は生意気にも「私は姉とは違うので。」と主張した。後日先生は私と親にも謝ってくれて、子供ながらそんな大げさなことじゃないのに…!(生意気!)という思いと、一人前に扱ってくれた嬉しさがあったのを覚えている。
基本的に、学校の先生であろうとただ年上というだけで敬う必要はないと思っている。(年上に敬語を使うとか使わないとか本当にくだらないと思う、私は拘りがないし面倒だから使うけど。心が近くなった相手には年関係なくタメ口で話しちゃう。)
接しているうちに見習いたいと思う機会があれば素直に尊敬するけれど、本当にどうしようもなく合わない大人(良い人悪い人ではなくて、私が許せないと思うことを平気でする人)もいて、私はそういう人に対してすごく嫌悪感を抱きやすい。最近はだいぶマシになったけど、私はすごく人を嫌いやすい みんなに好かれている人ほど特に。
そんで最近久しぶりに本当に無理!な先生に出会ってしまった。生徒のことを見下していて、人と人を比べるような。なんか自分より40くらい歳上で、そんな心持ちの人がいることが本気で悲しくなってくる。
どんな相手と接するときも穏やかな気持ちでいるためには、相手の為す言動全て、その人の責任ではないと思うしかないと思っている。責任はあるんだけど、それは育った環境や触れ合った人とのことで、多分そんな人だって生まれてから今まで時間の流れるまま生きてきただけだ。
でもそれではわたしの気持ちの落とし所がなくて、わたしは相手に思ったことを伝えずに相手の悪口を言ったり文句を言うことはしたくないので、せめてどんな相手だろうと直接意見することを正当化している。今回はそれで相手の嫌なところが露呈してしまって、結局自分の心が削り取られそうになったから引き下がった。不安になることがあるとすれば、言葉をコミュニケーションではなく自分の感情を吐き出すために使っているんじゃないかと思って揺らぐ。

昨日、バイト先のママがどんな決断も自分が納得しているかどうかが大事と言っていた。
わたしはよく冷めていると言われることが多いけど、心の中には宮本がいるんだ。理不尽を通す必要がある過大な場所では生きていけないんだろうなと感じる。つくづく社会で生きるのに向いてなさそう。「社会人」になんてならなくて良い。
自分の行為に納得できること、心を保つために忘れずにいたい。

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