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アンチ思いやり!

前回の記事とまたつながる部分がある。あれ以来派生していろいろなことを考える。

わたしはどうも無意識な洗脳というものを極度に恐れているらしい。無意識な洗脳はもちろんわたしにもあるけれど、言い換えるとそれは常識だということで、ほとんどの場合事実に基づき、倫理的な思想であることが多い。共通した倫理観の一部は綺麗事だと言われるが、わたしが気になるのはそれを指摘して現実を主張することともまた違う。(だって理想論と現実がちがうのはあたりまえだし。)

例えば「あなたのためを思って」という言葉。
この言葉に対して胡散臭い印象をもつ人(あなたのためを思って叱ってるのよ、とかね)は少なくないと思うが、わたしはこの言葉に対して嫌悪感すらある。

自分がする全ての行動は、自らを満たしたいという欲求に基づいていないはずがない

たぶん「あなたのために」を信じる人は本当に自分があなたのためにこれを為すと無意識に思ってるんだろうけど、言われた方はたまったもんではないし、わたしはそんなこと言われて有難いなあとすんなり受け入れられる性格をしていない。

さらに例えば「『あなたのために』」別れよう。(実際にわたしが議論したことのあるテーマで、そのときのことを思い出して。)
ふつうの別れ話にこの言葉を用いると喧嘩になるんだろうけど、自分が病気で、健康な恋人がいた場合。自分の病気のせいで相手に迷惑をかけてしまうから相手を楽にしたくて別れをきりだすような場面、時には感動的なシーンにすらなるけど、不謹慎だと思うがそこで「あなたのために」を持ち出すような人間にわたしはなりたくない。

自分が重い病気になったら、わたしならこの人と別れてしまったらもう恋人はできないんじゃないかと考える。なにをしてもその人にそばにいてほしいと思うだろう。もちろんこれを相手に強いるより別れを切り出した方が一般的には「性格が良い」んだろうけど、言動の理由に自分の意思を用いてる点でわたしは相手にすがる人の方がよほど好感が持てる。別れを切り出す人は、単に「自分が」相手に迷惑をかけてしまうこと、悩むことに耐えれないと逃げただけだ。もちろん、逃げる選択をすることには賛成だけど、その伝え方が相手に責任をもたせているとき賞賛されることに対する違和感。

だって相手が考えていることをわかるはずないじゃないか。「あなたのために」なんてベールのなかにも相手の考えを勝手に推測する自己中心的な考えが隠れてるじゃないか。悩むのはつらい、自分が悩むことから逃げたい気持ちが相手と一緒にいたい気持ちを上回っただけじゃないか。ならばどうして自分がつらいから別れたいと言わないのか。(自分がする全ての行動は、自らを満たしたいという欲求に基づいていないはずがない。)

しかし、経験から勝手に相手の気持ちを推測するその行為をひとは「思いやり」と呼ぶ。最初に「あなたのために」に対して胡散臭い印象を抱く人はいるだろうとかいたが、「思いやり」に対しても捻くれた考えを持ってしまう人はどれくらいるだろう。わたしは「思いやり」にすらも、嫌悪感を抱いてしまう。
「あなたのために」を持ち出された時点で健全な関係は破綻してると思う。同時に不健全な関係から自分にプラスになるような要素を得ることは難しい。でも「あなたのために」イコール「思いやり」だと考えられることが多いから、わたしは思いやりを提示されるたびに心が少し曇るようになってしまう。思考は本当に面倒だ。

思いやりは言うなれば進化、知恵だと思う。自分の心を満たすため、何かから逃れるための思いやりは、言葉と同じでなるべく効率的に、人間関係を円滑に進めるために人間が閃いた、必要なスキル。でもひとりの人生には?

冒頭にかいた無意識な洗脳を解くことの必要性はないと思うし、わたしはそれを強いることはしない、ただ深い部分で同じ感性をもつ人を、自分でえらぶことができるようになったら。
わたしの世界はどんなにがんばっても絶対に自己中心的でしかありえなくて、それを幼いと呼ばれたとしても、恥ずべきことではないと信じたい。
あたりまえの人間関係が少しずつ削られ、無意識な洗脳から解放されたとき、驚くほど生きるのが楽になるんじゃないかという期待のために、わたしはこれからも考える。


(わたしの文章、「私」に対して「世間」を当てていることに違和感(わたしも世間のひとりなので)を覚える人がいるかもしれないけど、実際にはある人との対話の中でその人の発言から自分とは異なる意見をもっていることを理解して、かいている。実際にはわたしが世間で、その人がわたしの立場であることも十分に考えられるけれど、その想定は内省的に考えることを楽しむわたしにとっては無意味なので。)

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