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考えてもしかたのないことを考えることをやめられない人へ

世の中には考えた方が良い(考えることによって現実的に未来が変わる)ことと考えても仕方のないことのふたつがあると思う。
考えながら生きる人にとって最も効率的なのは前者のみ、例えば仕事のこととか人間関係のこととか晩ごはんのおかずとかを選択的に考えることだと思っているけれど、わたしは前者について考えることを放棄して後者のことばかり(たとえそれを考えることでどんどん暗くてやるせない気持ちになったとしても)考えてしまうのでタチが悪い。

あまり誰かとのことについてインターネットにかくのは良くないと思っているけど、この出来事を元に考えた自分のことについてかきたいので許してほしい。

昨日もベッドに入ってから、彼氏と「教養について」約2時間も議論してしまった。彼曰く私が引き下がらないから長引いてしまったそうで、私は自分の考えをわかってほしい(受け入れてほしいのではなくて)という思いで、朝4時半に起きなくてはいけないことを考えないようにし、4時まで話し続けてしまう。

きっかけは私の彼に対する「よく物事について考えるほうだと思う?」という一言だった。
彼は「実験とか料理とか、そういう作業があったときにその成り立ちとか次はこうすればいいんじゃないかとかはよく考える」と言った。私も彼のそういう部分には納得するし、そういった論理的な思考力に長けているとも思う。そしてこれは冒頭でかいた分類では前者の考えるべきことだな、と思った。
おそらくそこで終わればよかった。でもわたしが「それは理系的な考えだね。わたしは抽象的なことについて考えてしまう。」と言うとなぜか議論は教養と思想について飛躍する。(実際にはスムーズな話の流れだったかと思うけど、忘れてしまった。)

良くない思考に陥らないようにするためになにが必要かということだったと思う。そこで彼は知識、わたしは考える力(想像力)と答えた。
彼は知識が足りないと「独りよがり」な思想になってしまうという。わたしは「独りよがりな思想」の何がいけないのか、みんなが同じような道筋で物事を考えていたのではつまらない、思想はあくまで自由だ、と彼に問うと、彼はドストエフスキーの罪と罰や、オウム真理教(信者の人たち)を引き合いに出す。悲しい事件や非倫理的な出来事は知識(人を殺してはいけないということ、伝統的な宗教の歴史)が不足している(歪んだ正義感、特定の宗教の教えを数ある中の1つの考え方として処理できない)ことによって独りよがりな思想から生まれたという。わたしは山犬に育てられでもしない限り人を殺してはいけないなんてことは知識としては知っているし上の例はそれに当てはまらない、むしろ想像力がないことが残酷な思想につながり、宗教についても「独りよがり」であれば自分の確立した思想以外に対して良くも悪くも排他的であるはずだし、想像力があれば知識と自分の思想を直結させることもない、と答える。(少年Aのように想像力が事件につながる例もあるからやはり一概には言えないが。)

そこで話は「教養」に移る。
前回もかいたが、わたしは教養は知識に「想像力」が備わってはじめて教養といえるのだと思う。わたしのいう想像力とはそもそも何かについて考えようとする力のことでもあり、そこから無限に発展する考えを膨らませる力でもある。一方彼はたしかに考えることも大事だが、ふたつがそろってはじめて1つの単語を表すという意味が理解できない、教養はあくまで「正しい」知識だけを指し、さらに教養のある人は時代に流されない人とだという。「正しい」知識の例として常に科学が用いられる。例えば彼は水素水が健康に良いと思っている人は教養がないという例をあげる。わたしはその例には納得する部分もあるが、それは「時代に流されない」ことと矛盾しているのではないか(なぜなら科学は時代とともに移り変わる部分が少なからずあると思うし、誰がその正しさを判断できるのか?)、またその定義では真の教養のある人とは最先端の研究をする科学者にしか当てはまらないのではないか?と言う。(そんなことはないらしい。)
話を進めると、①引き出しの中に知識があり、②それを自分で選んで(考えて)、③自分の思想としてもつというプロセスを進んだとき、わたしは主に①②の部分を、彼は③、さらにそれが「正しい」知識(わたしがその正しさについて追求し続けたのが議論が長引いた要因)であるときはじめてそれを、教養とよんでいることがわかってくる。ここでとりあえずそういうことか〜と話がおわるかと思いきや、彼が②では誤った考え方をしていても良いのか?と聞く。私は誤った「考え方」というのがよくわからない。彼は論理的な考え方(A=B、B=CならばA=Cと言ったような)が知識としての教養の要素になるのではないかという。私はそれは誰かに自分の意見を伝えるときに必要なスキルで、ただ伝えるのが上手くて教養がない人もたくさんいる、わたしのいう教養はただただ自己完結的なものだから含まれない、というか結果だけをみて誰かの考え方を推測することはできない(それこそ「独りよがり」だと思う)という。そこでさらに数学を持ち出される。昔数式がなかった時代に同じ前提条件で「地球は丸い」という「正しい知識」を導いた人(A)と「地球は平面だ」という「誤った知識」を導いた人(B)がいる。彼の考えではBは教養のない人だが、私の考えではそうとも言い切れない。Bに足りなかった部分は強いて言えば例えば地平線を見たときに自分が球上にいるとわかる「知識」を知らないか「想像力」が及ばなかったいうことに言い換えられ、やっぱり教養につながる「正しい考え方」というのはわからなかった。
そもそも私が教養について考えるのは私が教養のある人になりたいからで、それはどういう人かと実際に色々な人を思い浮かべて帰納的に定義付けたものであるから、そんないたかもいなかったかもわからないような(いたんでしょうけど)人について議論してたのでは考えが噛み合わなくても仕方がないなと思った。のが、議論中に考えたこと。

そのあと当然のように自己嫌悪タイムが訪れる。愛があればいいたいこともある程度我慢するもんだよって言われて、一緒にいても楽しくないと言われてしまう。わたしは「我慢して」議論が楽しかったって言っていたのだけどそういう風に言われて、私だって別に楽しくなかったよと言ってしまう。
でもわたしはそれで別れたいとは思わない(彼は思ったと言われた)。わたしは議論をするときに相手の意見を否定しないようにしているけれど、疑問に思ったときにどういう意味?例えば?それは本当にあった出来事なの?と問い詰めてしまって、もちろん相手にとってそれは心地よくない。逆に言えばわたしはそういう言葉を投げかけられると嬉々として言い返してしまうが、「それ違くない?」と言われるとムッとしてしまう。
まえにもかいたけど(https://note.mu/dokidokidorayaki/n/n08db5c7113ee)、仲良くなるほどわたしは自分の考えを相手に伝えたくなってしまって、相手の考えも追求してしまう。自分をわかってほしいと思うのは甘えなんだろうけど、そこを譲ってまで誰かと一緒にいる意味はあるのか考えてしまって、きっと恋愛に向いてないんだろう。

なのに仲直りを期待してラインでスタバカードとごめんねの一言を送ってしまった。既読がつくだけで返信がこないことをずっと気にしたり、寂しさからくる自分のこういう弱さが本当に嫌だ。
パズルのピースを埋めるように、自分に足りない部分を持っている人であったとしても、他人が自分に足りないものを補ってふたりでひとつなんてことはあり得なくて、人はあくまでも1人だということを肝に銘じたい。

(ここまで読んでくれた人がもしいたとしたら、きっとわたしに良い印象を抱かないと思うけど、もしかしてわたしと似たような人かなとも思っちゃいます)

#日記

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