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教養について

さっき(昨日)少しだけ教養について考えていたら楽しくなってきたから文章にした。
さっきも書いたようにわたしの思う「教養」は中島らもの『今夜全てのバーで』にでてくる「教養っていうのは1人で時間をつぶせることだよ」という一言にもろに影響をうけそのままこの意味で定義付けている。

一般的に教養というとそれこそ一般教養とか、一般常識だとかあるいはそれなりに深い知識という意味で使われることが多いと思う。こういう広く使われる定義に対して自分なりの解釈を対抗させることの意味は置いておいて、わたしの思う教養はそれすなわち知識というわけではない気がする。

「一人で時間をつぶす」というのは日常的に暇な時間があれば映画を観に行ったり本読んだりそういう手段を知ってるってこともあると思うけど、極論を言えば生身で無人島に行っても退屈しないように考える習慣が身についてるというか、そういう人になりたいとなんとなく思ってる。
田村由美先生の「ミステリと言う勿れ」という漫画がほんとうに面白くて哲学的な面もあって、また受け売りになってしまうんですが、この漫画の中で主人公が幼い頃目の前の石を見てこれはどこからきたのか想像したり、アリをみてどうして漢字で「蟻」というのか考えたり(「義」が読み方を担っていると同時に、アリの社会性·忠義の「義」の意味もあるのでは、という考えに達した末恐ろしい主人公)、知識というのはあくまで考えるための引き出しであって、教養の本質は例えばそんな風に目の前の事象について考えることにあるのだと思う。
なんか当たり前のことを言っているように思えてきたけれど、「教養をつけるための知識」というのは「教養イコール知識」ではなく、「考える能力(教養)に必要な知識」ということを言いたかった。そしてその知識はやみくもにつければ良いとも思わないし必ずしも博学である必要もないんじゃないかと思う。このあたりの考えはまだまとまっていないけど、「少ない知識でたくさんの考えが生まれる」ことも一種の教養と言えるんじゃないか。わたしは別に教育に携わっているわけでもないし、もしかしたら教養って実はこの文章の意味で受け入れられているのかもしれないけれど、わたしはわたし自身が目指す人間性の指針としてひとまず「ひとりで時間をつぶせる(考えることができる)能力」としての「教養」を理解する。

(ちなみにわたしの将来の夢は物知り博学入れ歯もガクガク元気なおばあちゃんです…(コンピューターおばあちゃん))

#日記

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