第四開『雨』.原井

「……ぁよざいまーす」
 気の抜けたバリトンがラボに響く。寝ぐせだらけの髪に、無精ひげ、よれよれの白衣。
「あ、遅刻ですよ!」
「大丈夫だいじょうぶ。大西はちゃんと時間通りに来たんだろ?」
「あたりまえです。じゃなくて、わたしと山崎さんのふたりシフトなんですから、ちゃんと来てくれないと」
「まあまあ。いまはボスも出張中なんだし。かたいこと言わずに」
「山崎さんが緩すぎるんだと思うけどなあ……」
「なことないよ。――で、サンプルに変わりは?」
「ありません。今日も順調」
「ほら。だから俺がちょっとぐらい遅れてきても大丈夫だって」
「それとこれとは別問題では?」
 わたしがこの研究施設に就職してから、そろそろ4ヶ月になる。山崎さんはわたしより3年長く勤めている先輩で、シフトが被ることが多いので、気づけば自然とわたしの指導係のようなポジションになっていた。知識は豊富で頭も切れる人なのだが、なにせルーズな性格が玉に瑕だ。
「今日のメンテ内容は?」
「これです」
 A4でプリントアウトされたタイムテーブルを手渡す。
「ふうん。少し手入れの回数が多い日だな」
「でしょう? だから、あんまりのんびりしていられるとわたしばっかり忙しくなっちゃいます」
 山崎さんの返事はない。こんにゃろう。
 このラボでは、実験装置の中で原始的な生物を培養して、その観察を行っている。装置の中は外界とは遮断されているので、箱庭の中で疑似的に生態系を作り出していると表現してもいい。実験が開始された当初はごく短期間の観察が予定されていたらしいけれど、設計が思いのほかうまくいっていたようで、もうずいぶん長いこと続いているプロジェクトだ。
「長いなんてもんじゃないよ。なんせ、最初にこの装置を作ったお偉い先生は、いまのボスが学生だったころのボス……が、学生だったころにはすでに学会の重鎮だったって人なんだから」
 以前、山崎さんにそう聞いたことがある。
「え、そんなに古かったんですか?」
「おまえね、自分の就職先がやってる研究の概要ぐらい、ちゃんと調べておきなさいよ」
「いやあ、いま現在やってることには資料に目を通したんですが、縦軸には無頓着でした」
「いまってのは歴史の延長線上に乗せてみてはじめて意味を持ったりするもんだ」
「おお、それっぽい」
「だろ?」
 観察記録の中でも特に重要と思われるものは、プリントアウトしたものをファイリングして棚に並べてあるけれど、それだって大量だ。コンピュータの中には、さらに多くのデータが保存されている。
「ただ、これも皮肉なもんでさ。実は、この装置がなんだってこんなに長期間うまいこと“自給自足”――多少のメンテはしてるとはいえ――を続けていられるのかってのは、誰にもわからないんだよな。創始者のセンセイはそれを探ろうと頑張ってたって話だけど、いまじゃ俺たちも、いやうちのボスすら、半ば惰性で観察と記録を続けてるってわけ」
「えー、なんだかもっとロマンのある研究だと思ってました」
「ロマンはあったよ。いまじゃ出涸らしが残ってるだけだけど」
「さみしい話ですね」
「ただ、給料はいいんだな、これが」
 その通り、仕事の単調さに比べて、研究所からわたしたちへのペイは決して低くない。いや、世代平均に対して充分高い額だった。それもあって、研究内容に対する興味が半減してしまったいまも、わたしは転職という選択肢を検討せずにいる。
 観察・記録のほかにわたしたちがサンプルに対してするのは、簡単な環境維持活動だ。光を当てたり遮ったり、水分を足してやったり。一日の中でするべき作業はボスが決めている。いまは学会で出張中のボスだが、出先からタイムテーブルをデータで送ってくれるので、わたしたちがするのは、それにしたがって所定の時間に装置を操作することだけ。
 次のシフトの研究員がやってくるまで、作業をすべき時間だけを気にしながらほどほどの暇を持て余すのが、いまのわたしたちの主な仕事だと言ってもよかった。
「なー、大西。たしか俺たち、明日は夜シフトだったよな」
「ですね」
「よし、今日は飲みにいこうか。久々に」
「もちろん、山崎さんが出してくれるんですよね?」
「…………。やぶさかではない」
「よし、言質とった。そういえば、駅前の花岡ってお店、閉まっちゃったと思ったら、別のお店がオープンしてたんですよ。わたし、あそこが気になってて」
「おまえねえ……」
 先輩のおごりでする飲み食いほど心を浮き立たせるものって、なかなかない。
 ――そう、それ以上に、ひさしぶりに山崎さんと食事にいけるということに、喜んでいる自分を自覚。お給料のほかにわたしが転職を検討せずにいる理由のもうひとつが、このルーズな先輩への好意であることは、きっと、疑いようがない。
 足を組んで椅子に座り、大あくびをする山崎さんを見ながら、わたしは――わたしは、気づいてしまった。
「山崎さん! 大変! 加水弁、微妙に開きっぱなし!」
「え? あ、うわ、しまった!」
「もう! 指さし確認しっかりって、こないだもボスに叱られてたじゃないですか!」
「あー、また始末書かな、こりゃ」
「頼みますよー」
「そうは言うけどな、大西だって、こないだよそ見して思いっきりこいつにぶつかってただろ。こう見えて繊細な装置なんだぞ」
「うぐ……っ、そ、それはそれ、これはこれです!」
 こうして、適度に退屈で、適度に刺激的なわたしの日常は過ぎていく。

     〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

「やっぱり、記録的な豪雨だったってさ。さっきニュースでやってた」
「だろうな。うちも一階が浸水でめちゃくちゃだ」
「生きててよかった。ほんと」
「しかし、ここ数年続くよな」
「あの地震ね」
「そうそう。ようやく落ち着いたと思ったら、今度は大雨」
「まいるよなあ、ほんと……」

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