第七開『縛る』宗谷燃
生まれてこの方、霊やあの世などスピリチュアルなこととは無関係で生きてきた。それなのに人生20数年目にして今朝初めて金縛りにあった。疲れていたのだろうか、不慣れすぎて戸惑っていたら終わってしまった。何か劇的な展開があるかと実は期待していたのだが、まあ現実はこんなもんか。
ルールは破るためにあるなどと声高に叫び続けていたらいつの間にか誰もいなくなってしまった。何をするにもルールはあって、所詮制約の中でしか生きられない。それを縛りととるか確立されたシステムととるかだけの話だろう。人生のレールに乗れなかった自覚はあるが、昔から大人になった自分が真っ当に生きている想像がつかなかった。「みんな」の中に入れていない違和感はむしろ社会に出てからの方が強い。しかし土俵そのものを変える勇気も元気もなくて、はみ出しながらも真っ当な社会でやっていくしかないのであった。
朝、仕事に向かう車内で、わたしは今から何のためにこんな辛い思いをして働くのか、などと考えるのはご法度とされている。朝のまだぼうっとした頭でそんなことを考えていると、ほら、曲がるべき交差点はもうとっくに通り過ぎ、気がつけば高速道路をひた走っていた。まだ新入社員と呼ばれている分際で無断欠勤など到底許されることではなく(無断欠勤はいつでも許されないが)、しかしあいにく高速道路なので携帯電話を取り出すことはできない。ならば仕方ないと免罪符のようにそう思えば、では今自分は罪を犯しているのだろうか。元の場所に戻れば即ち罰せられるのだろうか。そもそも元の場所とはどこだっけ?会社?家?たまたまそこにいただけで、このまま身一つで新生活を始めたって構わない。絶えず唱えていなければ生きていられなかった頃のおまじないを思い出した。なんだってできる。
学生時代に3つか4つバイトを経験したが、思い出せば辞める時は全部バックれだった。辛い仕事だったわけではないけど、むしろどれも楽しかったけど、穏便に送り出されて辞めたことが一度もない。下宿を飛び出して2時間電車を乗り継いで行った海から退職の電話をかけたこともあった。初夏というにはまだ肌寒くて持ってきた薄っぺらいパーカーでは夜の海を凌げそうになかった。背負ったリュックがやたら重くて、その中には何を入れたんだっけ。戻ってこないつもりの部屋の鍵と、全部種類の違う煙草を3箱。律儀にモバイルバッテリーも入れたっけ。それくらいしか覚えていない。
ともかく逃げ出すなら海、と相場が決まっている。オンボロの軽自動車でもたどり着けそうな近場の海。ガソリンを入れるのを忘れていたけど、帰れなくなったらそれまでだ。心のどこかでそれを望みながら、でもきっと帰れてしまうんだろう。
来るたびに思い出すが、意外と海に人は多い。一人黄昏ている奴なんかどこにもいなくて、真冬にも関わらずマリンスポーツに興じている家族連れや恋人たちがちらほらいる。悩みとかなさそうでいいな。素直にそう思う。こうして見ている人にもそれぞれの人生があるなんてあまり信じられない。全員たった今ここに出現しただけで、本当に生きているのはわたしだけなんだろうな。
海ならいつまでも見ていられると思ったのに、なんだかすぐに飽きてしまった。刹那主義なんて言い切れるほどではなく、ただ目の前のことから目を背けていたい。逃げ延びたことなんてないし、逃げ延びたとしてその先に何かがあるとも思えない。冬の重たい太陽がやっと空に登りきったところだったが、なにせすることがない。来る時の高揚感はすっかり消えて、「やってしまった」という後悔だけが脳内を支配する。今朝の自分はあんなに海に来たかったのに。自分がしたかったことをしてもすっきりしなくて、何に縋ればいいか分からなくなった。誰かに決められたことをやるのは気に食わないくせに、自分で決めたことをやるのはこんなにも怖い。
路肩に止めた車に戻る。緩いカーブに沿ってガードレールが並んでいる。このまま突き破るには助走が足りないなあとぼんやり思う。アクセルを踏むだけならできるけど、わざわざバックして飛び込む気力はない。自分がどこへでも行けることなんてもうとっくに分かっていて、それでも踏み出すべき最初の一歩がどうしても億劫なのだ。帰りたいと無性に思う。住処としての家ではなくて、ここが帰る場所だと心から思えるところ。それを探すのが生まれた意味なのだとしたら、クソみたいな人生だ。今朝の金縛りを思い出す。動きたいのに動けない。そう思い込んでいたけれど、自分をここに縛り付けているのは自分なんだろう。動けない理由があればよかったのに。置かれた場所で咲けなかったら花にはなれない。それだけのことだ。
遠くの家族連れが駐車場に戻ってくる。幸せは遠くにあれば見ていられるが、近づいてくるなんて聞いていない。歩いてくる幸せほど怖いものはない。やめてくれ。慌ててエンジンをかけて、それでもやっぱり行く当てがない。結局こうなのだ。人生なんか終わらせてやると大見得を切ったって、咄嗟の時には逃げることしか選択肢のない人間なのだ。なんてつまらない。
職場に着くまでここから1時間半、戻ったらどんなに怒られるだろう。怒られもしないのだろうか。無断欠勤はダメだよと言われて終わりなのだろうか。とにかく旅は終わった。終わってしまったからには、元来た道を帰るしかない。そうしなければならない。
近くの海や山をもういくつか思い浮かべて、これから職場で言われるであろうことを考えて、できるだけ静かにアクセルを踏み込む。バックミラーで笑っている家族連れが、ゆっくり遠ざかる。
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