第八開『羽』.原井

 優衣ちゃんのお父さんは有翼人でお母さんは普通の人間で、優衣ちゃんはお父さんの形質を少しだけ受け継いだので背中の部分に普通の人間にはないものが付いている。はばたくための翼は持っていないけど、羽の名残としての小さな骨と、それに付随する筋肉が。「別に何に使えるわけでもないし、動かせたってなんにも得することないよー」と言って優衣ちゃんは笑う。「っていうか、リュックしょってても中身が当たってかゆいしさー、役に立つわけでもないくせに動かしとかないと凝っちゃってだるいし」。部活の帰り道。学校指定のかばんを少し重そうに提げて歩く優衣ちゃんの隣で、同じく学校指定のリュックサックをしょったわたしはてくてく歩く。
 わたしと優衣ちゃんは陸上部の部員だった。二人とも短距離の選手。優衣ちゃんがほんとうのほんとうに得意なのは走り高跳びだったんだけれど、「ほら、跳躍系のはさ、いろいろうるさく言われること、あるから」といって優衣ちゃんは選手にはならなかったのだ。有翼人であるお父さんの血を引いていても、その子どもである優衣ちゃんに同じ力はない。お父さんが持っている立派な翼の付け根に当たる部分、肩甲骨の上の背骨寄りのところに、小さな骨が普通の人間よりも余計に付いているだけなのに。けれど優衣ちゃんが唇をなめて(集中するときの優衣ちゃんのクセだ)助走してきれいなアーチを描いて高跳びのバーを飛び越えるとき、「やっぱり有翼人の血はすごいな」とつぶやく人が少なくないことをわたしは知っている。そして優衣ちゃんも。
「もったいないなあ」
「何が?」
「優衣ちゃん、やっぱり高跳びすればいいのに」
「んー、まあ、ね」
 わたしが思い出したようにこの話をするたびに優衣ちゃんはちょっとだけ困ったように笑う。わたしはそれがもどかしくて、でもなんだか優衣ちゃんに悪いこと言ってるのかなーという気もしてしまって「そっかー」と言って目をそらしてしまう。だから、そんなとき優衣ちゃんがどんな表情をしているのか、わたしはよく知らない。

 いちばんの得意種目は高跳びだったとはいえ、二番目に得意な短距離を専門にした優衣ちゃんはそれでもわたしよりもいいタイムで走るのだった。実力は競っている。とは思う。でもいつもすんでのところで競り勝つのは優衣ちゃんだ。負けるたびに悔しいけれど、ゴール間際で視界の端に優衣ちゃんの背中が映ることは、それはそれで何かすがすがしいような奇妙な感覚をわたしに抱かせる。
 優衣ちゃんは文武両道中学生を地で行く優良少女で、スポーツができるだけじゃなくて勉強の方もよくできる。わたしはといえばグラウンドの上では優衣ちゃんとなんとか肩を並べることができるものの、そっちの方はさっぱりだった。いや別にさっぱりっていうほど成績が悪いわけじゃないんだけど。なんとか学年平均よりは上を保ってます、ってくらい。
 そろそろエアコンや扇風機なしでも寝苦しくなくなってきた二学期の中間テストまえ。わたしはいつものように放課後の教室で優衣ちゃんといっしょに試験勉強をしていた。正確には優衣ちゃんに助けてもらいながら提出課題と格闘していた。「ね、この単語どういう意味だっけ」「どれー?」「この、えっと、タステ?」「テイスト?」「あ、そうやって読むのか」「教科書のさー、なんだっけ、あそこに出てたよ、えっと」「教えてくれればいいじゃーん」「だめだよ自分で調べなきゃ」「けち」わたしがほおをふくらませると優衣ちゃんは大まじめな顔を作って「めっ」とわたしをしかる。「めっ」だなんて自然に言えちゃって、しかもそれが嫌味だったりぶりっ子だったりする印象にならない。優衣ちゃんはそういうすごい子なのだ。
「あ、まーた石田が遠藤におんぶにだっこだ」
 いつの間にか近くに来ていた酒井拓也が茶々を入れてくる。
「うるさい」
「酒井くん、課題どのくらい進んでる?」
「んー、理科の問題集がもうちょい」
「あたし全体でまだ半分も終わってないんだけど」
「遅っ」
「うるさい」
「遠藤は?」
「わたしは、ひと通りは終わったよ? あとは復習」
「さすが。石田も見習え」
「うるさい」
「めぐちゃん、さっきからうるさいしか言ってないよ……」
「知らないー、酒井も英語もどうでもいいー」
「英語はどうでもよくないよ!」
「おれはどうでもいいってことね……」
「あ、ちがくて、えっと」
 慌ててフォローする優衣ちゃん。別にこんなやつ放っておけばいいのに。でも、優衣ちゃんは酒井拓也のことが好きなのだ。クラスのお調子者、酒井拓也。授業中に先生たちのことば尻をとらえて軽口をたたいては、たしなめられている。そのくせテストでは好成績をとってくるので、わたしとしてはそういうところが気に食わないんだけれど、優衣ちゃんに言わせれば「力が抜けてるのにやることちゃんとやってる感じ」に見えて好感触なんだそうだ。「わたしは、いっつも力みすぎちゃうからさー」だって。へえ。
 酒井拓也と話しているときの優衣ちゃんときたら瞳はキラキラしているし声もほんの少しつやめいてまったく恋する乙女が全開になってしまうので、そばにいるわたしとしては面白くはない。優衣ちゃんにいちばん近いところにいたいのはわたしなのに。子どもっぽい嫉妬だっていうことはわかっているけど、それでも。

 いつものとおり優衣ちゃんは優秀な成績をおさめ(ついでに酒井拓也も)、わたしも通常営業でそこそこの成績におさまった中間テストあけ、部活で校舎の周りをランニングしながらわたしは優衣ちゃんに愚痴をこぼす。「なーんか、うちの、お母さん、わたしの、成績、やばいと、思ってる、らしくてさー」「そう、なんだ?」「そろそろ、塾に行かないとー、とか」「って、言われたの?」「うん。でもさー、別にいいじゃんねー、そんなの、せめて来年、三年生に、なってから、でもさ」「わたしは、勉強の、こととか、よくわかんない、けど」「えー! 優衣ちゃん、勉強、できるじゃん」「自分の、ことしか、わかんないもん」「あー、そっか」ちょっと息が上がってきたこともあって、そこからはまた無言で走る。やだなー、なんで定期テストや受験なんてあるんだ。世の中は何か間違っている。ひょっとして全国の青少年はいまこそ決起して試験からの自由を求める闘争に身を投じるべきなんじゃないだろうか。でもそれって誰と闘うことになるんだろう。親? 学校の先生? キョーイクイインカイ? モンカショー?
「あのさ、めぐちゃん」
 遠いところへ旅立とうとしていたわたしの思考を優衣ちゃんの声が引き戻す。
「え?」
「実はね、わたし、この間、」
 横目で見た優衣ちゃんの顔が存外に真剣でどきりとしたわたしは首ごと横を向いた拍子に地面のちょっとした凹凸に足をとられ見事に足首をひねってすっころぶ。とっさのことに受け身もとれずに思い切り膝をすりむいて、ついでに走ると足首も痛んだので保健室へ。「だいじょうぶ? ついていこうか?」「平気へいきー。優衣ちゃんは練習続けてて」優衣ちゃんの申し出を断って校舎に入ったわたしは偶然に酒井拓也と出くわし、酒井拓也はわたしに告白する。なんだそれ。やっぱり優衣ちゃんについてきてもらえばよかった。

 酒井拓也の語るところによればやつはなんと一年の夏ぐらいからこのわたしのことが好きで今年に入ってからはその思いを告げるチャンスをうかがっていたけれどわたしがいつも優衣ちゃんといっしょにいるので隙がなく、わたしたちに話しかけて雑談をするのが精いっぱいだったのだそうだ。わたしはてっきり、やつは優衣ちゃんに話しかけに寄ってきていると思っていたのに。だいたいそんなことを「うわ、石田なにそれ、血? こけたん? だっせー。髪に砂ついてるし。ぎゃはははは」ってけがをしたわたしを気遣うでもなしに思いっきり笑った直後に言うようなことじゃない。「何それ、意味わかんない」「意味わかんだろ、真剣に聞けよ」「あたしは足が痛いの。保健室に行くの」「ごまかすなって」「どいて」「石田」「うるさい」「なあ」「だって、あたし、そんなの……困る」何が困るんだろう。そうだ優衣ちゃん。だって優衣ちゃんは酒井拓也のことが好きで。でもそれをここでわたしからこいつに言うわけにもいかなくて、それで。
「だめなの」
 言いながら、なんだっけこういう展開よくあるやつじゃん漫画や映画なんかで、ほらあの何ていったっけ有名なやつわたしも見たことある気がする、なんて考えはじめているわたしがいる。きっとわたしはずるくていまどうやって酒井拓也から逃げられるのかだけが大事だしそれがどうにも無理っぽいので現実逃避をしているのだ。
「何がだめなんだよ」
「だから! なんであたしなの! ほかにもっといい子いるじゃん! っていうかあんたのこと好きな子だっているはずじゃん!」
 支離滅裂なことばを強い調子でぶつける。
「……それって、遠藤のこと?」
「え?」酒井拓也が優衣ちゃんの名前を口にしたのでわたしは一気にクールダウンする。「どうして、」じゃなくて、いや、そんなことをいうと優衣ちゃんの気持ちがばれちゃう、じゃなくて、えっと。脳みその温度は下がったものの、わたしの頭に去来したのはまた新たな混乱にすぎなかった。どうしてそこでいきなり優衣ちゃんの名前が?
「実は……こないだ、中間終わった日に、遠藤にコクられた」
「え」
「それで、断ったんだ。おれは、その、石田のことが好きなんだって」
「なにそれ」
「だから」
「なにそれ、ばかじゃん」
「なんだよばかって」
 足が痛い。ずきずきする。

 話しているうちにひねった足の痛みを思い出してしまって顔をゆがめたわたしを気づかってくれたのか、酒井拓也はその日はそれ以上何も言わずにわたしを保健室まで送ってくれてわたしが保健の先生に膝を消毒して足首に湿布を貼ってもらっている間にどこかへ姿を消す。次の日に教室で顔を合わせてもきのうのことなんてなかったかのようにふるまう酒井拓也の顔をわたしは直視できないし、さらに優衣ちゃんの顔までまともに見れなくなってしまったわたしは簡単に優衣ちゃんに怪しまれる。別に、と下手にごまかすわたしを優衣ちゃんは優しく見逃してくれたけど、わたしの中ではどうしても優衣ちゃんとの会話がぎくしゃくしてしまう。部活の最中や帰り道にちゃんと話ができたらいいのに、足の痛みはなかなかひかず部活を休んで帰る日々。こんなのわたしじゃないみたいで、家に帰ってやることもないからってこないだテストが終わったばかりなのに数学のワークを解いてみたりなんかしてしまう。
 ようやく優衣ちゃんと話す機会ができたのは十日ほどたった土曜日、陸上部の校内記録会のレース待ち時間でのことだった。
「こないだ、めぐちゃんが転んじゃった日、あったじゃん」
「あー、うん」
「あの日、わたし、めぐちゃんに言いかけてたことあったでしょ」
「あったあった……あだだだだ!」
 優衣ちゃんがわたしの背中をぐいぐい押してくる。運動部員の連中ときたら、ストレッチとくるとみんなドSになるのでいけない。それは優衣ちゃんとて例外ではなかった。
「実はね、わたし中間テストが終わった日に……いぃぃいいい! ストップ!」やり返してやろうというのと、中間テストが終わった日、と聞いてどんな話かわかってしまって、わたしも必要以上に力をいれて優衣ちゃんの背中を押してしまう。「酒井くんにね、好きだって言ったんだ」
「――うん」
「それで、断られちゃった」
「――そうなんだ」
「酒井くん、好きな人いるんだって」
「へぇ……」
「めぐちゃんなんだって」
「……」
「あんまり驚かないんだね」
「実は」
「うん?」
「こないだ、転んだあとさあ、保健室に行く途中で……。酒井に告白されちゃった」
「――そうなんだ」
「そのとき、あいつから聞いたんだよね、あいつが優衣ちゃんにコクったって」
「あー……そっか」
 いまはグラウンドで四百メートルの選手たちがタイムをとっている。それが終わると今度はわたしたちの百メートル。
「それで、めぐちゃん、どうしたの? 返事」
「そのときは――はぐらかしちゃった。それより、足、痛かったし」
 優衣ちゃんの気持ちを考えてもそれどころじゃなかった、というのは黙っておく。一応。
「だめだよ、ちゃんと返事してあげないと」
「うん」
「わたしねえ、別に、自分が酒井くんにふられちゃったことは、そんなに気にしてないんだよ。酒井くんの好きな人がめぐちゃんだったのも――仕方ないかなって思う。めぐちゃん、素敵だしね」
「そんなことないよ!」
「そんなことあるの。わたしから見れば。めぐちゃんは、わたしが亜人とのハーフでも、気にせず仲良くしてくれるし」
 開脚した状態の優衣ちゃんの身体を倒していく手が、優衣ちゃんの「翼の骨」に少し触れる。その骨が何かを言いたげに動いた気がした。
「そんなの誰でもじゃん。優衣ちゃんいい子だもん」
 ほんとは「誰でも」なんかじゃないことを知っている。だからこそ、優衣ちゃんが酒井拓也に惹かれたことも。
「まあ、それでも」今度は優衣ちゃんがわたしの背中を押しながら言う。「ちょっとも悔しくなかったって言っちゃうと、嘘かもしれないけど」
「あ、あはは……あがががががが! 痛い! 無理股裂ける!」
「いいの。たまには八つ当たりさせてよね」
「よくないお嫁にいけなくなったらどうする!」
「あはははは!」優衣ちゃんの笑顔を見て、ようやくわたしの中のわだかまりも解けはじめる。「よし、じゃあ、もも上げね」
「はいよー」
「実はさ、酒井くんの好きな人がめぐちゃんだってわかったことより、いやだったことがひとつだけあるんだよね」
「え、何?」
「めぐちゃん、最近わたしのこと避けてたでしょ?」
「うっ。それは……」
「そういうの、もうやめてね?」
「ごめん」
「うん。――はー、よかった。これで安心してめぐちゃんとレースできる」
「――そうだね」
「わたし、勝つから。今日も」
「負けてやるもんか。今日こそは」
 レースの準備が整う。わたしと優衣ちゃんはスタート台の後ろに立つ。ちらりと横目で優衣ちゃんの表情をうかがう。ぺろりと舌を舐める優衣ちゃん。うん。本気の優衣ちゃんだ。
 位置について。
 よーい。
 ピストルの音。
 反応は二人ともほぼ同時。
 加速もまずまず。
 腕を振る。地面をける。
 視界の後ろに向かって流れていく景色。
 近づいてくるゴール線。
 視界の端に――隣を走る優衣ちゃんの振り上げる腕が。
 そのうちそれは腕全体になって。
 優衣ちゃんはとうとう、わたしに背中を見せる。
 悔しいけれど、見慣れた景色だ。わたしはこの位置から優衣ちゃんを見ているから知っている。高跳びなんかしなくても、ゴールを駆け抜けるとき、優衣ちゃんの背中には存在しないはずの羽がたしかに生えているってことを――。
 息を切らしながら優衣ちゃんがわたしに笑いかける。わたしも肩で息をしながら笑いかえす。
優衣ちゃんだって、まっすぐわたしにぶつかってくれたんだから。
 週が明けたら、酒井拓也に断ろう。優衣ちゃんのことなんて言い訳に使わずに、自分の気持ちを理由にして、ちゃんと。

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