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“やさしい日本語” なんて、ないのだ。

年度末の怒涛の研修・会議がよーやくひと段落。

ついに最後の3日間は声が出なくなって、お聞き苦しいことになり失礼しました。

この間、いろんなテーマでいろんなご意見・ご質問をいただき、僕自身もいろいろと考えさせられた。

何度か聞かれたのが、

土井さんが、やさしい日本語を扱うときのポイントは何ですか?

というご質問。

ポイントって、上手に「やさしく」するコツってゆー意味じゃなくて、「大切にしてる価値観」みたいなことね。

いろいろあるけど、1つ挙げろと言われれば、やさしい日本語に携わる人が絶対に忘れちゃいけないのは、

”やさしい日本語” なんてものは、ないのだ。

ってことだと思ってます。

これの意味がわからない人、そうは思っていない人が、やさしい日本語を口にしたり書いたりするものを読んだときは、すぐに「あ、この人ちがうな」ってわかる。

「ちがう」ってのは、立ち位置や社会に向き合う姿勢が、僕とは同じじゃないなって意味で、別にその人のやってること・言ってることがどーとかじゃなくてね。

もちろん、僕のが「正しい」わけでもないし、「正しさ」を求める時点でもう「ちがう」んだけどね。


"やさしい日本語" をどう捉えるか。

今の社会課題をどう認識しているか。

"やさしい日本語" を活用してどんな社会を目指すか。

それはその人の

志(こころざし)

なんだよ。

を持てない人とは

命をかけて闘えないのだ。


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