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地域日本語教育の総合的な体制づくりを考えるー国・自治体の“責務”とは?

今日参加した研修会のテーマが「地域日本語教育の総合的な体制づくり」で、それを進めるうえで関係者が共通して抱える課題の一つに

どうすれば行政が ”主体的" に日本語教育を行うようになるか

ってのがあって、自分でももっとよく考えてみなきゃいけないなと思ったので、そんなすぐには整理できないだろうけど、時間があるときに考えたことを言語化していこうと思う。ホントまとまりないんで、読まれる方はご了承くださいませ(苦笑)


まず、これを課題に感じている方々の立場は、自治体やその外郭団体に雇用されている日本語教育事業の担当者。多くは有期雇用契約。なので、”主体性” をもってもらいたいと思っている相手は、一義的には当該自治体の正規職員である担当者であったり、日本語教育の担当部署だろう。もちろん、担当者個人・部署だけでGOサインがでるわけじゃないので、最終的には財政担当や議会での承認などを得て、自主事業や外部への委託事業として実施することになってはじめて行政が "主体的" にやってるってことになるんだろう。市民活動団体等に補助金とか助成金出してますってのは、あくまで主体は市民活動団体だからね。


ところで2年前の2019年、国会で「日本語教育の推進に関する法律」が衆参全会一致で賛成・可決された。その法律にはこう書かれている。

第三条(基本理念)日本語教育の推進は、日本語教育を受けることを希望する外国人等に対し、その希望、置かれている状況及び能力に応じた日本語教育を受ける機会が最大限に確保されるよう行われなければならない。
第五条(地方公共団体の責務)地方公共団体は、基本理念にのっとり、日本語教育の推進に関し、国との適切な役割分担を踏まえて、その地方公共団体の地域の状況に応じた施策を策定し、及び実施する責務を有する。


これを読めば、全ての自治体は日本語教育をやらなきゃいけなくなったって考えるのが当然じゃないかって思うんだけど、なぜか、実際はそうなってないみたいで、これがこの問題を考えることにしたいちばんのポイント。

つまり、行政が、法律で定められた「責務」を果たさなくてもいい理由ってなんだろ?ってこと。そこが知りたい。

やらなきゃってゆー認識があるところ、やれるところだけがやってりゃいいってことなら、「責務」とは書かれないよね。同法第六条(事業主の責務)みたいに、「〜に努めるものとする」って書かれるはずだし。だからやっぱり、これは「責務=義務」なんじゃないかと思うんだけどな。

ただ、「責務」と「義務」を国語辞典で調べたら「ほぼ同義」だったけど、法律用語でググってみたら、「義務」が「権利」と対になっててそれをしないと罰則や損害賠償責任が発生するような性質の内容であるのに対し、「責務」はそのことを行う役割を持つ者を規定する際に使われる用語で、そこに罰則や損害賠償責任は発生しないものらしい(←ホントかどうかはわかりません。後日ちゃんと調べてみたい)。

そうなると、「やらなきゃいけないのはわかってるけど、やれない・やらない」ってゆーことは現実としてあり得るもので、それに対して「なんでやらないんですか!やんなきゃダメでしょ!」って言えないのかもしれないと思えてくる。(残念ながら。。。)

あ、それと、「いつまでにやらなきゃいけない」ってゆー期限が決まってるわけじゃないみたいだから、「やりますよ。いつか・・・」ってゆー “逃げ道” もあるのかもしれない。(そんなのアリかよって思うけど。。。)


この法律の解釈と、期限については確認ポイントですな。


視点をちょっと変えて、じゃあ日本語教育を主体的にやっていない行政に対して(注:すでにやってるところも少なくないですけど、そこは置いといて)、今日の研修参加者がそれをがんばって促していかなきゃいけないかってゆーと、それはちょっと違うんじゃないかとも思う。

もちろん、「責務」があることを知らない人にちゃんと伝えたり、その上でどうやっていくかをいっしょに考えたりすることは大事だけど、わかっててもやろうとしない担当者のお尻を叩いて叩いて叩いて手が真っ赤に腫れ上がってしまうなんてことまでする必要はないんじゃないかと。そこに責任を負わなくていい。それはあなたの「責務」じゃない。


責務は(国と)地方公共団体にあるわけだから、そこの最高責任者である首長が判断すべきでしょ。

首長がやるべきことやってないなら、どうなってんだって議員が指摘すべきでしょ。

議員が指摘できてないんなら、有権者や納税者に限らず、住民が声を届けるのが大事かと。


という流れでいくと、結論は「行政に主体性を求める日本語教育事業担当者は、住民の声を取りまとめて議員に伝え、議会で質問なり提案なりしてもらって、首長に働きかけるべし」ってことになる。

これはこれで民主主義社会における ”まっとうな手段" だとは思うんだけど、まぁやれんわね、実際。今年で契約期間満了ってときに思い切ってやっちゃう人がいるかもしれんけど、職場で干されるの覚悟でやる人はいないだろうなぁ。こっちも、やっちゃえなんて無責任に言えないしねぇ。


それで結局、担当者のみなさんは

どうすれば行政が ”主体的" に日本語教育を行うようになるか

ってゆー課題を抱えて悩み続ける日々を過ごしてらっしゃるわけですよね。

さてさて、どーしたもんか。


法律ができる前から、やってるとこはやってる。

やってないとこがなくなるように、法律ができたと思ってた。

従来の「日本語教育空白地域」ってのは、法制化後には「今のところ責務を果たしていない地域」とイコールなんだと思ってた。

どうやらそうじゃないみたい。

でも、法律ができてもやれない・やらないとこはそのまんまってのじゃ、法律ができた意味がない。

法律が意味を持たない社会って、なんだ?

それとも、この法律自体が欠陥品なのか?

この法律に基づいた基本方針は、“おおむね5年ごとに検討を加え、必要に応じて変更する” ことになってるので、遅くとも2024年度までに、何がネックになっていて、どうすれば全ての自治体で「日本語教育を受けることを希望する外国人等に対し、その希望、置かれている状況及び能力に応じた日本語教育を受ける機会が最大限に確保されるよう行われ」るようになるか、自分なりに考えていきたい。


とりあえず、今日はこんなとこで。

ご意見・ご質問・アドバイスなどあれば遠慮なくお聞かせください。


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