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50歳の母がガンで亡くなった話②

前回は母が私に、ガンであることを告げたところまででした。
2013年の6月中旬ぐらいです。

大学のある兵庫県に向かう帰りの新幹線で、母からメッセージが届きました。
気をつけて帰ってねということと、なるべく福岡に帰ってきてほしいということ。新幹線代は出すから、と。
まだこの時点で私は、母の余命が短いことを知りません。
でも放任主義で「帰ってきて」なんてほとんど言わなかった母がこのようなことを言うのはよっぽどのことなんだと思いました。
6月30日に部活(オーケストラ)の大きな演奏会があったのでそこまでは部活、7月は定期試験があったので大学へ、空いた日があれば福岡に帰りました。この期間はあまり記憶がありません。

7月上旬には母は入院し、完全に外出はできなくなっていました。
2度目の抗がん剤を打ったのでとてもきついと言っており、ほとんど話さず寝ている日もありました。髪をバッサリと、今まで見た中で一番短い髪型になっていました。

たしか同じくらいの時期に、病院に父親が来るようになりました。
両親は私が大学1年のころに離婚しており、私は父親がとても嫌いでした。
暴力を振るわれたとかではないけれど、父親はとにかく母と私からの愛情が欲しくてたまらない様子で、どんどん奇行に走るため私たちは距離を取る、という悪循環でした。まぁ、父親についてはここでは深く語りません。笑
そんな父親が、母から連絡を受けたようで頻繁に病院に来るようになりました。セカンドオピニオンも受けるべきだ、他にこんな病院がある、と自分で調べたらしい資料を持ってくるときもありました。

22歳で成人したとはいえ学生で、まだまだ子供気分だった私は、母がガンになったと聞いても病院に付き添うことしかできず、自分で調べて先生と話す、という行動はとれませんでした。
でも父親が私より目立った行動をとるので、”今までずっとお母さんのそばにいてお母さんの味方でいたのは私なのに、いまさらでしゃばりやがって”と思ったし、自ら行動ができるようにもっと知識が欲しい、父親に負けたくないから早く大人になりたいと強く思いました。あと、やっぱり父親が嫌いだなと再認識しました。

抗がん剤を打った時の母は、まだ生き続けたいという気持ちがあったのだと思います。でも抗がん剤では勝てないほどガンは進行しており、2回抗がん剤を打ったところで母は、「治療をやめて緩和ケアに変えたい」と言い(自ら言ったのか、病院から勧められたのかは分からない)、緩和ケア専門の病院に移ることになりました。

母から「病院を移ることにした」と言われたのは入院フロアの共用部(休憩室?)でした。
私は椅子に座り、母は点滴のカラカラを持ちながら、リハビリがてらと言いながら机の周りを歩いていました。〇〇にある緩和ケア専門の病院に移るということと、力強く笑顔で「我が人生に一片の悔いなし!」と言いました。本当に心が強い母だと思います。
この言葉を言われた瞬間はいまだに私の中に強く残っていて、未練なく母は人生を終えたんだと思うとなによりも私の気持ちが救われたし、私も死ぬときには同じことを言えるような人生にしたいと思っています。

しかし緩和ケアに移るというのは、治療は諦めるということ。より死が近づいているということなんだろうなと漠然と思いました。最後まで、寿命があとどれくらいということは教えられず、母の様子で徐々に察するという状況でした。
母との別れがぼんやりと見えてきたとき、自分の気持ちをちゃんと伝えたい、いや、”伝えなければいけない”と思い、母に手紙を書きました。
内容のすべてはもう覚えていないけど、母が今まで大事に育ててくれたこと、お母さんの子供に生まれてよかったと思っていること、いつか自分が母親になる日が来たらお母さんみたいな母親になりたいと思っていることを書きました。
元々、私たち親子は感情をストレートに伝え合うことはあまりなく、感謝を改めて伝えることに照れくささがありました。しかしこの状況で照れくささで悩んでいる場合ではないと思い、病室で横になっている母に手紙を渡し、私が帰ったら読んでほしいと伝えました。

次の日病室に行ったら、母が私の顔を見ずに、少し震えた声でぽつりと「手紙読んだよ。この手紙は棺桶に一緒に入れてほしい。」と言いました。私はたしか「うん」とだけ答えた気がします。
入院を始めた頃(おそらく7月上旬)は病院の1階出入り口まで下りてきて見送ってくれたのですが、もうこの頃には(7月の終わりごろ)病院の入口まで下りて見送りをしてくれることはできなくなっていました。

ここらへんから思い出すのがつらい。
いったん切ります。


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