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50歳の母がガンで亡くなった話④

2013年8月に入り、母の状態がみるみる変わっていきました。

ぼんやりと感じていた『死』のイメージが、はっきりとした『母はもうすぐ死ぬ』という実感に変わっていきました。
いつも元気だった母が毎日苦しそうにしているのを見ているだけで、本当に悲しく心細い気持ちになりました。
母のガン細胞が私に移ればいいのにと心から願ったし、“自分が身代わりになってもいい”と思える人は私には母だけのような気がします。

思い返せば小さい頃から母に褒められることが一番の原動力でした。
母がいるから私はがんばれているのに、母がいなくなったら私も存在する意味がない。当時はそんな考えも浮かんできました。
病院から帰ってきて、母の部屋で迷子の子どものように立ちつくしたままぼろぼろ泣く日が続きます。

そんな中、嬉しかった出来事もありました。
看護師さんから「娘さんが病院にいる時や、娘さんの話をする時だけお母さんの表情が柔らかくなりますよ。」と言われました。
もとから、母はまったく愛想がないタイプの人間でした。
失礼な態度を取ったり文句を言ったりなどはしなかったと思いますが、病院の方たちと雑談はほとんどせず、必要な事だけを淡々と伝えていたと思います。
たぶん看護師さん達は母の感情が掴みづらかったと思いますが、そんな母が私のことを話す時だけ優しい表情をしていたというのは、私のことを大事に想ってくれている証拠のような気がして嬉しかったです。

8月に入ってから、お見舞いに来る人が少し増えました。
父親は変わらず病院に来ていたので、鉢合わせしないように時間をずらしていました(笑)
この頃、父親は再婚をしていて、再婚相手と「何度も見舞いに行って、前の家族がそんなに大事なのか」と喧嘩になっていることを母づてに聞きました。
結局誰のことも幸せにできない男なんだなぁと思いました。

高齢になった祖父と祖母も1週間に一度ほど来ていました。
鹿児島に住んでいる伯母(母の姉)は、久しぶりに会った母の様子がだいぶ変わっていたことにショックを受けたようで、涙声で話しかけていました。
母の学生時代からの友達も3人、お見舞いに来てくれ、母の姿を見て泣いていました。
人が泣いている空間はつらいですが、母のために集まって泣いてくれる人がいるのはいいことだなと、どこか冷静に思って見ていました。

2013年8月25日の日曜日、病室のテレビで笑点を見ながら、母がリンゴなら食べれそうだと言ったのでリンゴを剥いて出しました。
食べるのもきつそうでしたが、一口だけ食べてくれました。
これが母の最期の食事です。

その日の帰り際、病院の先生から呼び止められ、「状態を見る限り、お母さんとお話できるのは今日が最後になると思います」と言われました。
「明日以降は意識が混濁して話せなくなると思うので、何か話したいことがあれば今日お話しして帰ってください」と言われ、1人で病室に戻りました。

これは今でも心から後悔し続けていることなのですが、2,3週間前のまだ普通に話せた頃、母から「遺影は私のスマホに入っている写真から適当に選んでね」と言われていました。
その頃はまだ遺影だなんて…と思ったし、スマホのロック解除コードを聞くのがなんとなく憚られて聞いていなかったのです。
ただ、いよいよ話せるのが最後と言われて、コードを聞いておかなければいけないと思いました。
母に聞くと、もうすでに番号を言えるほど意識がはっきりしておらず、私は愕然としました。
「こんな状況なのにごめん…!おねがい…」と言いながら半泣き状態でスマホを母の前にかざしましたが、母は指をスマホに向けたものの正しい番号を押すことはできませんでした。
頼まれていた遺影の写真はもちろん、母が今まで見てきた景色が入っているであろう他の写真もまったく見れないままとなりました。
なんで聞いておかなかったんだろうという後悔と、最後の会話をこんな形にしてしまった自分に絶望してその日は帰りました。

いったん切ります。

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