見出し画像

50歳の母がガンで亡くなった話③

前回は2013年7月下旬、母が治療から緩和ケアに移ることを決めたところまででした。

8月に入り、大学が夏休みになったので私はずっと福岡にいられるようになりました。
部活のオーケストラでは、当時ヴィオラのパートトップをしていました。
パートのメンバーと幹部メンバーに、しばらく福岡に帰るため部活に参加できないことや、負担が集中しないように曲ごとにトップを分担してやってもらうよう伝えました。
毎年地方に行って演奏会をするイベント(演奏旅行)があり、それも参加できないと伝えましたが、幸運にもその年の行き先が福岡だったので、本番当日だけ参加して演奏することができました。
ガンにかかっていなければ母が初めて聴きに来てくれるはずだった演奏会。普段は関西で開催されるため、いつも母は「最後の卒業演奏会だけは行こうかな」と言っていました。オーケストラは大学時代に心血を注いでやっていたことだったので、ずっと母に見てもらいたいと思っていました。結局一度も私の演奏会に来てくれることはありませんでした。

少しさかのぼって8月頭、母は緩和ケア病棟がある病院へ移りました。
病院が呼んでくれたタクシーに荷物を入れ、母と二人で移動しました。
移動中、母はおもむろに「結婚なんて一度しかできないなんてないしね。別に失敗したっていいし。唯ちゃんはなんだかんだ最終的に幸せになれそうやけん大丈夫よ。」と笑って話していました。
私はそのとき何の話だろう…?相手もいないのに離婚する前提…笑?と聞いていましたが、今思えば私が母へ手紙を渡したあとのことだったのでその返事だったんだと思います。
結婚しなくちゃなんて思わなくていい、気負いせずマイペースに生きていいんだよ、と。
普段言葉や感情をストレートに言わない、母の最大級の「幸せになってね」というメッセージだったのだと思います。

入院した始めの頃は、少しでも長く母と一緒にいたくて、お昼ご飯を買って、病院で食べて、夕方になったら帰っていました。
ある日私がご飯(たしかビビンバとかだった気がする…)を食べて帰ったら母からメールが来て「匂いで気持ち悪くなるけん、悪いけどこれからは家でご飯食べてから病院来てくれん?」と言われました。臭かったんか…という小さなショックと、母の状況や変化にもっと気を配らないといけないな、と気づかされた出来事でした。
そんな状況ですが母はマックのチーズバーガーをとても食べたがり、頻繁に買ってきてくれと頼まれました。
病院食があるからいいんだろうか…と思いましたが、看護師さんは「好きなものや食べたがっているものは食べさせていいですよ」と言ってくれました。たぶん緩和ケアだからなのだと思います。
私が2・3個まとめ買いをして、冷蔵庫で保管して食べたいときにチンして食べていたみたいです。笑
あとはみかんが食べたいというので、スーパーで温室みかんを買っていきました。真夏の8月だったので割高でしたが、売ってくれていてよかったなぁと思いました。

母は50歳でまだ若いほうだったので、ガン細胞が進行するスピードもとても速いと言われました。
実際に8月頭は自分で歩くことがギリギリできていましたが、みるみる歩けなくなり、足が見たことないほどぱんぱんに浮腫んでおり、肌が黄色くなっていました(黄疸というらしい)。
徐々に寝返りを打つこともできなくなり、体勢を変えたいときはナースコールをして看護師さんに変えてもらう、という状況になりました。

いったんこの辺で切ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?