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50歳の母がガンで亡くなった話⑥

2013年8月28日、母は50歳で亡くなりました。

母の遺体は別室に運ばれ、病院の方々に母の着替えと化粧をしていただきました。
洋服は病院から事前に頼まれており、生前、母がよく着ていたデニムのジャケットを私が選んで持ってきていました。
お化粧の最後に「仕上げの口紅だけやってあげませんか」と呼ばれ、まだ見慣れない『動かない母』に、口紅を塗りました。

病院から葬儀場へ行き、お通夜、葬儀、火葬と行いました。
母は特に交友関係も広くないし、人を呼ぶなんていう気持ちの余裕がなかったので一番小さな家族葬のプランにしました。
費用は父親が出してくれましたが、またここで自分の力のなさに悔しさを感じました。

段取りをしている時などは泣いたりはしませんでしたが、たぶん心身ともに十分疲弊していたんだと思います。
母の死を報告した友達からは「花を贈らせてほしい」と言ってもらい、少し前に別れた元彼はわざわざ関西からこちらに来ると言ってくれましたが、身内だけの家族葬だから大丈夫とすべて断りました。
その時は自分がそこに立っているだけでいっぱいいっぱいだったので他人を気遣う余裕がないから断った部分もありましたが、いざという時に人に頼ることができないのは自分の強い部分でもあり、弱い部分でもあると思います。

私は今まで誰かのお葬式に行ったことがなく、母のお葬式が初めてでした。
喪主が何をするのかも分からないまま、「喪主は私がやりたい」と言って任せてもらいました。
鹿児島から駆けつけてくれた伯母に助けてもらいつつ、葬儀社の方と打ち合わせを行いました。
自分の喪服すら持っていなかったので、家にあった母の喪服と数珠を身に着けました(それがOKなことなのか分からない・・・なんか悪いことのような気がするが仕方がなかった・・・)

身内だけとは言いつつ、お通夜には10人ほど親族が集まりました。
私はあまり関わりのない親戚ばかりでしたが、全員が過去の母を知っており、私は「母に似ているね」としきりに言われて、なんとなく親族の繋がりみたいなものを感じて不思議な気持ちになりました。
それまで知ることがなかった、私が生まれる前の母がどんな人だったかという話や、母と父親がお見合い結婚だったこともそこで初めて知りました。
二人が恋愛結婚じゃなくてちょっとホッとした自分がいました(笑)

翌日の葬式、お通夜の時とほぼ同じメンバーが集まりました。
大叔母(祖母の妹)が、お通夜の時に寄せ集めた情報やエピソードを詰め込んだオリジナルソング(ソングというより日本舞踊みたいな唄)を作ってきて披露した時間は、唯一笑いがこぼれた瞬間でした。
いや、本人は大真面目に唄っているので笑いを堪えるしかなかったのですが・・・こんな時でも自分は笑えるんだなって安心しました。

逆に一番つらかったのは、火葬場でした。
病室で息を引き取ったのが魂との別れだとしたら、火葬場は肉体との別れでした。
正真正銘、これが母の顔を見ることができる最後。
運ばれていく最後の瞬間に取り乱してしまい、静かな火葬場に自分の泣き声が響きました。
火葬を待つ間、何も話すことができず、伯母が黙って隣に座ってくれていたことを覚えています。
骨を拾う時が来ると、もうそれは母だったのかももはや分からず、私もいつかこんな風に骨になる時が来るんだなと思いながら眺めました。

母は28歳のときに私を産み、50歳で亡くなりました。
母の人生の半分も一緒にいられなかったのかと思うと少し寂しい気持ちになります。
私が福岡で就職したら二人で新しく家を借りて気ままに暮らしたいねと話していたし、海外に一度も行ったことがなかった母を海外旅行に連れて行ってあげたかったです。
街中で母娘で歩いている人を見ると羨ましいと思うこともあるし、「母ががんの宣告を受けつつも奇跡的にまだ生きている」という夢を見ては泣きながら起きるということも何度もあります。
それでも私が前向きに生きていられるのは、母が「この世に悔いなし!」と力強く言った言葉のおかげだと思います。
”成人した姿を見せることができた。”
”一度だけ、一緒にお酒を飲むことができた。”
”銀行に就職が決まったことを伝えることができた。”
”母に感謝を伝えることができた。”
できなかったこともあるけど、できたこともたくさんあります。
私こそ悔いのないお別れができて、とても恵まれているなと感じています。

母が亡くなって10年経ち、やっと文章にできるほど感情が整理されてきたのと同時に、母との記憶が少しずつ消えていくのが怖くなって、今回noteに書きました。


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