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50歳の母がガンで亡くなった話⑤

前回は母が亡くなる3日前。

次の日に病院に行くと、先生が言っていた通り、母は話せる状態ではなくなっていました。
先生の予測が完璧に当たっていたことに少し関心しつつ、母は既定路線で死にまっすぐ向かっているのだと感じました。
何か奇跡が起きて、意識が戻ったり話ができるなんてことはありません。

母の病室から出て帰ろうとしていると、廊下ですれ違った看護師さんから「大丈夫ですか?」と一言、声をかけられました。
今まで看護師さんたちとは挨拶をするくらいで、それ以上の話をすることはほぼなかった気がします。
たった一言、声をかけられて、突然涙が止まらなくなりました。
それまで自覚はなかったけれど、今思えばこのときまでずっと一人で溜め込んでいたんだと思います。
家に帰って一人になると泣くことはできていましたが、周りにつらいと言うことができませんでした。
こういう時に頼ってきた母にも言うことができない。
気づけば私の周りに看護師さんが4,5人集まってきていて、「ずっと心配していたから、やっとはき出してくれてよかった」と言ってくれました。
「言葉や涙をはき出した方が立ち直りも早い」と教えてくれて、なかなか泣き止めない私に嫌な顔せず寄り添ってくれたことはいまだにありがたく思っています。

母が亡くなる前日の2013年8月27日、
もう意思の疎通が取れなくなっているけれど苦しそうに声を出す母。
病院を出て家に帰っている途中に私は具合が悪くなり、家に着くと高熱が出ていました。
ご飯を用意してくれていた祖母にも、具合が悪いからご飯が食べられないと伝え、すぐに布団に入りました。
寝ている間も、うなされるようなつらさがありました。

目覚めたときは8月28日の早朝3時頃、病院からの着信でした。
はっきりと目が覚め、電話に出ると母がいよいよの状況になったのですぐに病院に来てください、という内容でした。
すぐに祖母と祖父を起こし、3人でタクシーに乗り病院に向かいました。
その頃には熱はすっかり下がっていました。
昨晩の高熱はまるで母とリンクしているような、母の体のつらさが私の体内にも流れ込んできたような、不思議な感覚がありました。

病院に着き、母の病室に入ると、いつもより人の出入りが多く、雰囲気がいつもとは違っていました。
母はただ苦しそうに息をするだけ。意識はもちろんないし、声も出せません。
看護師さんから「声は出せないけど聞こえています。話しかけてあげてください。」と言われました。
祖父、祖母、と順番に声をかけたあと、私が手を握って「お母さん、ありがとう」と声をかけると最後に大きく息をし、母は動かなくなりました。
祖母からは「唯ちゃんの言葉、聞こえたみたいやね」と言われたように、最後の瞬間、母は私の言葉に反応していたように見えました。

先生が母の死亡時刻を確認してくれ、そのあと祖母は母の手を握って「よくがんばったね」と声をかけ、祖父が小さく涙をぬぐっていた様子が切なかったです。
私は親を亡くしたけれど、祖父と祖母は子どもが亡くなった瞬間だったんだと改めて気づきました。
二人は穏やかに、だけど静かに悲しんでいました。

母が亡くなって30分か1時間ほどして、父親が病室に来ました。
父親はまるで悲劇のヒロインかのように母のもとに駆け寄り(私の主観が入っています)、大声で泣いていました。
事前に病院からは父親にも電話をかけていたそうですが繋がらず、仕方なく私からも電話をかけていましたが父親は電話に出ませんでした。
話を聞くと、前日に再婚相手とひどく喧嘩をして、携帯の通知を切って寝ていたそうです。それで病院と私からの電話に気づかず、病院に来るのが遅れてしまったと。
なんて馬鹿で救いようのない人なんだろう。
一生「あの時、死に目に会えなかった」と悔やめばいい。
まぁもうこの男のことはいいです。

母が亡くなった日の朝は、とても綺麗に晴れた夏の朝でした。
私は悲しいというよりは母が苦しみから解放されてよかった、というどこかすっきりした気持ちが大きかったです。
そう思えたのはそれまでにたくさん悲しみ、母ときちんとお別れができたからだと思います。



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