『小さな救い』のリアリティ

 
 NHK朝の連続テレビ小説『半分、青い。』が終わった。
 放送前から『朝ドラの枠を破る』宣言があり、ドラマの内容や登場人物も、脚本家の先生の言動も、とにかく評価が真っ二つに分かれた『問題作』。
 私にとっては大好きなそして大切な作品なので、完結したらある程度まとまった形で感想をのこしておきたいとは放映時から思っていたけれど、今回書くのは正確には感想とは呼べないものになる。
 自分がなぜこれほどこの作品に心揺さぶられ、惹かれたか。そして、これまで朝ドラを見なかった十代二十代の視聴層がなぜこの作品では一気に増えたのか。感想のような考察のような妄想のようなごった煮文章だけれど、よければ目を通してほしい。

『鈴愛にはまったく共感できない』物語序盤からこのドラマの批判派が一貫して口にしてきたのがこの言葉だった。
 鈴愛の、良く言えば裏表ない正直さと言えないこともない我の強さ、押しの強さは『わがまま』『傲慢』『下品』と、とにかく叩かれまくった。そんな彼女が家族からは(若干のおみそ扱いを受けつつも)両親や祖父母に大事にされ、学校では5分違いでうまれた律をはじめ、菜生ちゃん、ブッチャーという小学校時代からの悪友たちと『梟会』を結成し青春を謳歌する。その姿を『良いところなんて一つもないヒロインがなぜか周囲に無条件に愛されまくるご都合主義のヒロイン総愛されドラマ』のように揶揄する意見も見られた。
 けれど、ちょっと思い出してほしい。
 高校時代の鈴愛は、失聴した片耳だけでは聞き取りが心もとないために馬鹿でかいつけ耳をつけて授業に臨み、先生に『大きな声ではっきり話してくれないとわかりません』とゴリゴリアピールしていた。これだけならまあほほえましいと見えなくもないこのシーンだけれど、そんな彼女の様子をちらちらと見ながら、これ見よがしに馬鹿にした態度をとるクラスメイトの悪意もはっきりと描かれていた。
 つまり見ようによっては彼女は『クラスの中心にはいけないちょっと変わった子』で、けれども『幼い頃からの気心の知れた友人がいてくれるおかげで孤立はしないですんでいる子』となる。
 鈴愛は作中『勉強は向いてない』と断言するし、絵が好きで美術部に所属しているものの、なにかコンクールで賞をとったという話もない。同じ通学路を利用する他校の男子に告白されるくらいには可愛いけれど、初デートで拷問器具への情熱を熱く語ってドン引きされ、通学経路を変えられてしまう。
 ちょっと変わってはいるけれど、秀でた才能があるわけではない。変わった部分を魅力にできるような魔法『コミュ力』を持ち合わせているとも言い難い。
 私が十代二十代で、今まさに『クラス』という社会を生き抜いている最中だったとしたら、鈴愛のこの造形はめちゃくちゃ刺さる。しかも、そんな彼女も彼女を古くから知る狭いコミュニティーのなかでは認められ、受け入れられ、仲間たちとともに青春を謳歌できるのだ。
 ヒリヒリしたリアリティと、非現実的になりすぎない小さな救い。
 このバランスの良さが、物語の初めから若い視聴者を引き付けたのではないだろうかと、今ドラマ全体を振り返りながら私は思っている。
 
 このヒリつくリアリティと小さな救いのモチーフは、ドラマのなかで何度も繰り返される。
 漫画家を目指して上京し努力の末プロデビューを果たしても、10年の漫画家生活のなかで彼女は疲弊し、最後は筆を折る。
 努力して漫画家としてデビューしても、その『成功』がいつまで続くかはわからない。華々しい世界に残り続けられるとは限らない。
 どんなにあがいても自分の才能には限界があり、それと折り合いをつけるか、見切りをつけなければいけない瞬間がやってくる…。
 漫画家としての限界を感じ、己の才能を『見切る』ことを選んだ彼女は絶叫する。
『私には家庭もない。恋人もいない。何もない』
 この部分は台詞字幕のついた画像がツィッターに貼られて拡散し、ドラマを見ていない層から『この時代に、「家庭をもたない、恋人のいない女性はダメだ」という呪いを再生産させている』という批判を受けたりもしたけれど、この部分の肝はやはり『努力が実るとは限らない。そして、実らなかった努力は無駄になる』という、今の時代の『リアル』を彼女がはっきりと言葉にしたことだろうと思う。 これまで繰り返し語り続けられてきた『諦めなければ夢はかなう』『失敗は成功のもと』『挫折した経験が将来の糧になる』のような美しい言葉をそのままの形で信じることが難しいのが、今という時代だ。
 けれどこのドラマはこの身を切り裂かれるようなリアルを容赦なく描いたあとで、また小さな救いを添えてくれる。
 最後、掲載予定作品を落とす瀬戸際の彼女のもとにはアシスタント時代から切磋琢磨しあった仲間裕子とボクテが駆け付けて助太刀を申し出てくれたし、それでも締め切りまでに半分しか完成できなかった彼女の原稿分の穴をうめるため、師匠秋風羽織は彼女のアイディアをもとにして書きあげた作品を『原案:楡野スズメ』の文字を添えて代原として出してくれる。(これは表現者にとってはとても残酷な行為でもあるけれど、こうして引導を渡されたことで結果的に彼女は漫画から解放された)
 彼女は『私には何もない!』と叫んだが、漫画家として身をすり減らして描き続けた10年で、鈴愛は彼女のピンチにはせ参じてくれる仲間を得た。師との固い絆を得た。
 最後、糸が切れたように眠り込む鈴愛を眺めながら、彼女より一足先に漫画界を去っていた戦友裕子は『よく頑張った』とねぎらいの言葉をかけ、そのインクだらけの手にそっとキスをする。
 自分自身では認めきれない『実らなかった努力』を、他者が、仲間が認め、そっとねぎらってくれる。そのねぎらいによって挫折そのものは消えずとも、彼女が己自身にかける『すべて無意味だった』という呪縛はぐっと薄れる。


 この挫折と小さな救いの構図は、鈴愛から離れた場所でも繰り返される。
 鈴愛の仕事仲間(?)である津曲の息子修次郎は小学生時代にいじめをうけて、以来マスクを着用しなければ人前に出られなくなっている。ある日そのことを担任にまで揶揄されクラスで笑い者になり、途方にくれて逃げ込んだ体育館の用具室から彼は父に電話をかける。電話を受けた津曲はこう言う。
『もういい。家に帰れ。先生には、明日学校に行ってお父さんが話をする』
 さらにこうも続ける『相手は頭でっかちな大人だ、こどものお前には太刀打ちできないし、太刀打ちする必要もない』
 
 鈴愛自身の娘花野にも災難が降りかかる。彼女は地震の恐怖から教室で漏らしてしまい、そこからいじめを受けるようになる。担任はその状況をある程度把握しているはずなのに自分からそれを鈴愛に伝えることはなく、学校に行き渋る娘の様子を不審に思った鈴愛が問い合わせて初めてことが露見する。そして、担任から出てくる言葉は『ちょっと困ったことになっておりまして』という危機感のない言葉。
 学校に頼らず事態に対処しようとする鈴愛が転校するという手段もあると伝えると、花野はこう尋ねる。
『逃げていいの?』
 鈴愛は答える。
『逃げるんじゃない。これはする必要のない戦いだ。正しい場所に移るんだ』

 修次郎と花野、二人の学校生活がどうなったのか、ドラマ内でその後詳しく語られることはない。二人の問題が根本的に解決されるカタルシスを、このドラマは見せてくれない。
 けれども二人の親たちがこどものためにかけたこれらの言葉を聞けたことで、二人にはほんの少しの余裕が生まれただろうことは伝わってくる。そしてその言葉は、二人をとおして我々視聴者たちをやわらかく包んでくれる。


 どんな人生にも挫折はつきものだし、挫折や問題を消し去ってくれる魔法はどこにも存在しない。
 けれどもその挫折を理解し、痛みに心を寄せてくれる人がいるだけで、人はその苦しみのなかで少し息をつくことができる。
『半分、青い』が視聴者に提供してくれるのは、あくまでそんなちいさな救いだ。
 奇跡による大いなる救いの物語は、今の時代の我々には受け入れ難い。
 そのことをはっきり映し出したのが、物語の最終版、鈴愛の親友にして戦友裕子が、震災による津波のために命を落としたことが明らかになる展開だった。
 ドラマ内の人物だけでなく、多くの視聴者もまた彼女を愛し、その生還を願っていた。けれども奇跡は起きず、彼女は帰らぬ人となる。
 その悲しみの中で、彼女が生前携帯電話に吹き込んだ家族と友人あてのメッセージ、いわば彼女の『遺書』が流れる。
 東日本大震災では多くの人が愛する人たちへの別れを告げることもできずに亡くなった。いまだ遺体の見つからない方々もいる。けれどもドラマのなかで裕子は死後家族のもとに帰ることができ、愛する者たちへ送った最後の言葉も無事届いた。
 それは深い深い絶望のなかの、ささやかな救いだ。けれどどんなにちっぽけであっても、それは確かに救いだ。


 秀でた才能を持っているとはいえず、周囲と軋轢を起こさずうまくやっていく要領のよさもないヒロインが、それでも懸命にあがきながら挫折を繰り返し、そのたびに寄り添ってくれる小さな救いとともに立ち上がって前に向かう物語。
 
 私にとって『半分、青い。』はそんなお話しだ。
 大きな救いとカタルシスをくれなかったことで、このドラマを厭う人もいるだろう。けれども、このドラマの示してくれた小さな救いにこそ共感を覚えた人は確かにいた。このドラマは、そうした人たちのためのドラマだと私は信じ、そして愛している。



 

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