「人の役に立たなきゃ」って焦ってたけどさ

 何年か前に「人の役に立たなきゃ」と焦っていた時期があった。上手くいかないことが堆積していて、「自分は人を不幸にしかしないんじゃないか」と思ったり、「ほんとにお前は役立たずだな」と自分に対して思っていた。だから、何か「人の役に立つ」ことをしていなければ、生きていちゃいけないんじゃないかと感じていた。誰かの役に立てば、生きていることを許されるんじゃないか、と考えていた。

 でも今は全然思わない。「人の役に立たなきゃ」なんて。 人の役になんて立たなくたって、人は生きてていいし、役に立たないものこそ美しかったりするし、そもそも「役に立つ」とか「立たない」とかはだれが決めるのか。もうどうでもいい。人の役に立つかどうかという尺度を私は捨てた。存在しない。しなくていい。

  コロナが広がって、「不要不急」という言葉が多く使われた。そして多くの人が考えた。「これは不要不急か?」と。多くの人が悩んだ。「自分がやっていることは不要不急じゃないか。今のこの世界では必要ないのか。」と。 「不要不急」という言葉を突き付けられて苦悩する人たちの姿を目にして、そして自分の生活が「不要不急」に彩られていることに気づいて、思った。誰かがそれを「不要不急」って、「今の状況では必要ない」って言ったって、それは存在していていい。「誰の役にも立たない」って言われたって、それは存在していていい。コロナ禍は、「人に役に立つもの=善」「人の役に立たないように見えるもの=悪」という多くの人の胸に植え付けられた価値観を表面化させた。私も知らず知らずのうちにその価値尺度が内面化されていたことに気づいた。そしてその馬鹿らしさに気づいた。「いいじゃん、人の役に立たなくても」と。だって、「人の役に立つ」ものしか存在しない世の中なんて恐ろしくつまらないし、そもそも「役に立つ」とか「立たない」とか誰が決めるの?「人の役に立つ」の「人」って誰?私たち、「役に立つ=善」「役に立たない=悪」を植え付けられて、誰か一部の「人」に都合のいい社会のための歯車にさせられてる?と思った。

  だから、もう思わない。「人の役に立たなきゃ」とは。「役に立つかどうか」なんて尺度は、存在しなくていい。もし存在するのなら、私は「役に立たないもの」のそばにいたい。

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