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FEEL EARTH MEMORY #9

商売相手の都合上、うちの会社は出社が遅い。編集部だけでなく、営業部も販売部も総務部も、みんな昼の12時にやってくる。で、週に一度、朝礼ならぬ「昼礼」を全社員で行なうこととなる。がさがさとデスクを片付けてつくった広場に、総勢80名ほどが後ろ手で円陣を組む。その様子はいかにもブラック企業然とした物々しい雰囲気だ。

円陣の中央には、Vシネで見かけるダブルのスーツを着た「部長」。のけぞるように胸を張り、大声で社訓らしきものを叫びあげる。意外と甲高いその声を聞く度、またぞろ一週間が始まってしまったのだと憂鬱になる。昼礼中はもちろん私語厳禁。隣とコソコソ話をしているのがバレたりすると、部長のローキックを喰らうハメになる。緊張感は否応にも高まる。

しかし、その日の緊張感は、いつもとは比べものにならなかった。まず、滅多に現れないレアキャラである「本部長」が中央に鎮座している(DOPE)。 わざわざ、円陣の中心部分に誰かが椅子を運び込んだようだ。その脇には、部長とその愛人の総務係長。いずれも見たことがないほど、顔をこわばらせている。ああ、これはマズい。何か事件が起きたに違いない。私語厳禁とは肝に銘じつつ、ざわざわと社内に戦慄が走る。

「今から本部長のほうより大事なお話がある。みんなちゃんと聞くように」。部長のその声は、心なしか震えているように聞こえた。一体何が起こったというのか、胸騒ぎが激しくなる。それから少し間を取ったのち、本部長はゆっくりと立ち上がってこう言った。「おまえたち全員、目をつむりなさい。で、今から聞くことに心当たりがあるひとは手を挙げるように」。

紳士的ではあるが、底知れぬ恐ろしさを感じさせる声だった。その次の瞬間、ドンッと音を立て、先ほどまで本部長が腰掛けていた椅子が転がった。部長が蹴り上げたのだ。「おい、おまえら聞こえへんのか! 目をつむれって言われてるやろ!」。速い。あまりにも速過ぎる。本部長の命令からわずか数秒ほどしか経っていないというのに、なぜここまで瞬発的に怒りを沸騰させられるのか。性格面だけではなく、健康面にも何か問題があるのではないかと心配になる。

ともあれ、我々は全員目をつむった。本部長は、また静かに話し始めた。
「えー、あのな、このビルの管理会社さんからクレームをもらったんや。何のことかなと思ったら、うちが使ってる2階と3階をつなぐ階段室のことや。なんというかな、そこの壁が異常な汚れ方をしとるねん。これを言わなアカンこと自体が恥ずかしいんやけどな、まあ、壁一面鼻クソなんや。どうやら誰かが長期間にわたり、鼻クソをちょっとずつ壁になすり付け続けてるらしい」。

突如として飛び出した「壁一面鼻クソ」というキラーワードに度肝を抜かれ、咄嗟にこの問題の全容を掴めずにいると、またもや部長が沸騰した。「おい、誰の仕業じゃボケェ! ほとんど壁一面が茶色く変色しとんねん。ワシも今まで気付かんかったけど、近くで見たら確かに無数の鼻クソがなすり付けられとるんじゃ」。目をつむりながらも、部長がいかに怒り狂っているかが分かった。

「おい誰や、今ちょっと笑ったやつおるやろ。あんなあ、ほんまにどえらいことなっとんねんぞ。あの階段室を使うのはうちの会社の人間だけやから、管理会社からおもいっきし詰められとるんじゃ。ヘタしたら、このビルから追い出されるかもしれへん。ともかく、心当たりのあるやつは正直に手ぇ挙げえ!」。

目をつむってから、すでに15分くらい経った。その間、部長は地団駄を踏み続けているようだったが、犯人が現れる様子は皆無だった。異様な緊張感に包まれたまま、暗闇と沈黙が続いていく。その中でぼくは、「鼻クソを長期間にわたりちょっとずつ壁になすり付け続け、ついにほとんど壁一面の色を変えてしまった人間」について考えていた。なぜなのか? 一体どれくらいの期間を費やしたのか? ていうか、あれ、鼻クソってそんなにしょっちゅう出るもんやっけ? 考えるほど頭がクラクラする。シュールの渦に飲まれていく。「壁一面鼻クソ」を理由にビルのテナントから追い出されるかもしれない会社の真ん中で、誰か助けてくださいと叫び出したい気持ちでいっぱいだった。

(#2のリエディットです)