無題14

霜まよふ空

霜まよふ空にしをれしかりがねの帰るつばさに春雨ぞ降る

真冬、霜は地上のどこに下りるか迷うかのように空に停滞し、雁(かりがね)の翼を萎れさせた。その厳しい冬もようやく終り、雁たちは北国に帰っていく。雨だけど、温かい雨だ。ぜんぜん平気。むしろ温かさを直に感じながらカムチャツカの故郷をめざして飛んでいく。霜まよふ空の、しをれるしかない寒さから、春をつばさに感じながらの飛行。三十一文字のなかに季節が移る。

解説者によっては「春雨ぞ降る」をネガティブにとり、長い冬をようやく耐え凌いできたあげくに、帰るときも雨かよ、もう散々だ–––とする説もある。「雁の涙が春雨となり地上にふりそそぎ、その春雨に雁の麹 はさぞかししおれていることだろう」(佐藤茂樹 2009)。しかも雁の涙は、その和歌の実力に見合う待遇を得ていなかった定家自身の涙でもあったのだそうだ。だとすると定家は叙情の詩人で、自分の気持を雁に託して作歌したということになる。

それはちがうんじゃないか。頼朝挙兵の報が都を駆け巡るなかで「紅旗征戎、吾が事に非ず」と言いのけた定家(十九才)だ。朝廷の紅旗を立てて賊軍(戎)を征討する?そんなの関係ない。政治問題も、雁が飛んで行く風情も、まして自分の心情など、関係ない。定家の「吾が事」とは、和歌という言語形式の可能性を極限まで探究するという一大事以外、ないでしょう? 霜も、雁も、春雨も、その形式で利用可能な、長い時間をかけてつくられたオブジェクトだ。それぞれの情感を個別に言語にうつす段階はおわっている。次になされるべき和歌のメジャー・アップグレードは、複数のオブジェクトを組織・制御して叙情・叙景の平面から離れることであったはず。このことを最も敏感に自覚していたのが藤原定家その人であったと思う。じゃなきゃ、見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 は存在しない。平安和歌史を通じて中心的な二つのオブジェクト「花」と「紅葉」を外してみましょうか?って言ってるわけですから。そのおかげで無数の秀歌が生れましたが、そのおかげで和歌の可能性が縛られてしまったってことはないでしょうか?いま勇気を出して花も紅葉もない浦の苫屋に行ってみたら、もしかして和歌の、いえ、日本語という言語の、まったく新しい次元が開けるんじゃないか。開けるかどうかは、やってみなきゃわからない。私がやります。

帰るつばさに降る春雨は、もう、祝福のシャンパンにしか感じられない。

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写真|
日本列島にわずかに残された雁の飛来地、福島潟(新潟)で撮影。青木淳設計「潟博物館」、やや離れて安藤忠雄設計「豊栄図書館」「葛塚中学校」がある。

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