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可能性の海/道元の教え 2

心を識得すれば 大地さらにあつさ三寸をます |正法眼蔵「即心是仏」

2本の平行な直線がある。これに適当な曲線を重ねると、直線のはずが、ちょっとだけ曲って見える。これを「錯視」の一例とする通常の解釈に逆らって、じつはその曲線に不思議な力があり、ほんとうに直線を曲げたのだ、と考える。

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曲った「かのように見える」のではなく、実際に曲ったのである。いやいやそんなことはありえない、定規を当ててみなさい。ちゃんと定規通りに線はまっすぐのままですよ、とのアドバイスは無用。定規すら、その場所では曲ってしまうのだ。見えるとおり、直線は曲った。あるいは直線の周辺の空間が曲ったと考えてもいい。あなたの目は完全な目で、決して錯ることなく、ものをありのままに見ている。

高い建物があったとする。そのすぐ隣に超高層ビルが出現する。すると、今までは高いと思っていた建物が、急に低く見え始める。いや低く「見えて」いるのではない。隣の超高層ビルの不思議な力によって本当に縮小してしまったのだ。あなたの目はその力の作用をありのまま目撃した。錯覚ではない。

これが常識に反する説明だということは重々わかっている。はじめから反しようとしているのだから、当然だ。なんなら、われわれにとっての非常識を常識として採用する、どこか別の惑星の話と思ってもらってもいい。その惑星 "P" では、こうして年がら年中、空間が曲ったり、伸びたり、縮んだりしている。地球人はそれをせわしないと思うかもしれないが、何億年も前から住んでいれば慣れたもので、これがP星人の日常なのである。その結果、かれらの辞書に「錯覚」という語は存在しない。P星の誰もが自分の知覚に確信をもっている。

P星のあるエンジニアが、空間変形を制御できないかと考えたとしよう。変形する空間にされるがままにしているばかりが人生ではない。空間の運動法則を探り当て、それに基づいて空間を自らの意思でデザインすることはできないか。彼は愚直な方法でスタートした。直線 =𝑋 と曲線 =𝑌 に、いろいろなものを代入して試した。「いろいろなもの」とは図形にかぎらない。色でも、音でも、言葉でも、動くものでも、動かないものでも、物質でも非物質でも、ありとあらゆるものが 𝑋×𝑌 の演算対象になった。

ここでエンジニアは思いついた。𝑋, 𝑌 のどちらか一方、たとえば 𝑋 を固定し、𝑌 だけを自由に変えてみよう。建築で言えば、𝑋 は既存条件(コンテクスト)で、𝑌 はこれから存在すべき建物だ。まだ図面は白紙。無限の可能性の海に向かって設計者は漕ぎ出そうとしている。可能性の海... いいこと言っちゃったなと、設計者はつぶやく。記号も海にふさわしいものに変えよう。𝑌 に代えて、"∼" にしよう(ティルダと読む)。𝑋×𝑌 は 𝑋× ∼ または 𝑋∼ と書かれる。𝑋 の可能性の海。𝑋 が山なら山の、河なら河の、可能性を顕在化し、現実化し、道元の言葉を使わせてもらえば現成させるのが、建築士の仕事じゃないか。

地球人は「心」という言葉をよく使う。それはたいてい、人に帰属する何かだ。「感情」とか「きもち」などともいわれる。だがP星では、心は物に帰属する。物には、一見しただけではみえない可能性が潜んでいて、それを物の心という。よく物の心がわかり、それを引き出す技に長けた職人を「心の匠」と呼んで貴ぶのがP星のならわしだ。

ならば、𝑋 の可能性の海と言うのも、𝑋 の心と言うのも、同じことではないか。もはや 𝑋∼ を「𝑋 の心」と名づけることになんの不都合があろう。山河に心がある。日月に心がある。草木にも、土塀瓦礫にも、みな心がある。それは無機物にむりやり感情を読み込むことでは、全然ない。対象に包まれた可能性を開く能力によって「心」という概念は成立しているのだ。かつて地球の仏教徒が仏心と呼び、磨き上げるための修行を勧めたのも、じつは物の心、𝑋∼ にほかならなかった。

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