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花踏み分けて

おもだかや下葉にまじるかきつばた花踏み分けてあさる白鷺
定家

今度はビジュアルで来た。おもだかの葉の緑に、かきつばたのブルーを混ぜたところに、やって来た鷺の白さ。Note は都合で横書きですが、たぶん和歌は縦に書いてたと思うんで、掛軸を想像した方がいいかもしれない。緑青白が縦に絶妙な間をあけて配置されている。しかも動画。「あさる」=漁る。水と魚も、表には出てないけどこの一軸の重要な役者だ。

どうして「間」が感じられるかといえば、おもだかや/かきつばた/白鷺というふうに、名詞三つの配置になっている。名詞の静止した感じが間を生んでいるんだと思う。

平安末期、藤原隆信という人がいた。絵の天才だったらしい。源頼朝の肖像と伝えられる作品、日本史の教科書で見たことあるでしょ?それ描いた人。僕は実物見ました。「神護寺三像」と呼ばれる三点の一です。他の二像は平重盛藤原光能。ずいぶん前、京都国立博物館で開かれた国宝展で。その日は会場大混雑で、人を見に行ったようなものだったんですが、この三作の前に来たとき、人も、壁も、天井も、床も、みな消えました。隈研吾によると、ライトもシカゴ万博で、当時日本の最高職人チームによって縮小再現された宇治平等院鳳凰堂の前で、その経験をしたらしい。やるね、ライト!

その天才・隆信が定家の異父兄だったという記述を村尾誠一『藤原定家』の29ページに今日発見し、深く深く納得したのでした。「おもだかや... 」は、日頃、兄ちゃんのデッサンとかドローイングとか見てた弟による一首なのだと。ていうか、隆信が絵の、定家が歌の、道元が仏道の、それぞれの天才だったんじゃなく、十二世紀末から十三世紀、平安から鎌倉期にかけて、京都にひとつの文化的密度が存在したということなんだろう。高度の density のなかで信じられない跳躍がいろいろな形態をとって起こった。世界史上、たまに起る奇跡が、そこに起きていた。奇跡のループを用意した一人は厳島神社を整備し、平家納経をつくらせた平清盛だと思っているけど、その話はまたいつか。

最近の研究によると、神護寺三像で描かれているのは源頼朝ではなく、平重盛でも藤原光能でもなく、別人物であるとの説が有力になっているらしい。時代も、平安末期より百年ぐらい下る。となれば作者も藤原隆信ではなくなる。よろしい。鎌倉末期か南北朝時代か、もう一人天才がいたってことだ。じゃあ、隆信はもっとすげえ絵を描いてたかもしれないじゃんね。定家の歌、現代アートに近くないですか?色を言語と考えてますよね?そう考えさせる絵を兄ちゃんはしょっちゅう描いてて寝殿造の壁や障子に貼っては女御たちに拍手喝采されてたと想像します。

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