8.ぼくら、二十一世紀の子供たち (3)
――目が覚めると、そこはベッドの上でした。薄暗く、傍には誰も居ませんでした。枕元の台には飲みかけの冷えたファンタのクリアレモン味の缶が置いてあり、外では、軽い雪がちらついていました。
自分から伸びる管を目線でたどると、左腕に点滴を打たれていました。そしてその腕を持ち上げると、
「……あ、……」
左手首から先がありませんでした。傷は既に塞がっていて、神経もないはずなのに、なんだか痛みました。それは亡霊の痛み(ファントムペイン)でした。
「――おや。目が覚めたみたいだな、アルテミス」
部屋に入りしなにそう言う声がありました。少女はそのドイツ訛りの響きに覚えがありました。
「…………」
けれど、言葉が出てきませんでした。脳圧が高まってくるのを感じました。それから血が、全身を駆け巡っていくのも、感じました。それは失くした左手を除いて、ですが。
「随分長いこと、眠ってたんだぜ。床ずれはしてないか? レッドがときどき、お前を寝返りさせてたからな」
少女はそんなことよりも、彼の安否が気になりました。すると失くした腕が焼けるように痛みました。男は、枕元のファンタの缶を飲み干すと、げっぷをして、それから言いました。
「――ああ、腕か? そんなに心配するな、とっておきがある」
そういうと男は、――そうだ、ハンスだ。私はこいつをハンスと呼んでいた。と少女は思い出しました――少女の失くした左手を手に取ると、手際よく電極を接続し、――灰娘(シンデレラ)にガラスの靴を履かせるように――取り付けたそれは、柔らかな人工筋肉と甲蟲のように固い装甲とで出来た、筋電義手(バイオニック・アーム)でした。
「実験中の最新型だ。神経にインプラントされた電極が直接義肢を操作する。特別な訓練は要らない。理論上では、失くした腕と同じように動作するはずだ」
「……私は、……」
少女は絞るように掠れた声を出しました。
「……お前たちの、実験体(サブジェクト)か……?」
「――おいおい。それを言ってくれるなよ。レッドが、色々と苦労して会社に取り次いで、ここまでこぎつけてくれたんだぜ。お前も、そのほうが都合がいいだろう」
少女は、取り付けられたばかり筋電義肢を眺め、それからゆっくりと握ったり、広げたり、捻ったりして動かしてみました。それはまだ少しぎこちない動きで、腕だけ産まれ直したみたいだ、と思いましたが、そのやや重たくて赤黒い甲蟲は、幻肢の動くのに一瞬遅れつつも――たしかに動作するのでした。
その日は犠牲祭(イド・アル=アドハー)でした。アブラハムが息子のイスマーイールを進んで神に犠牲として捧げた事を記念する日であり、皆は正装し、神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)と唱え、神への供物を捧げ、イスラームの慈善を実践するために、生贄の肉は飢えた貧しい人たちへと分け与えられ、家族・親族・友人たちは集い、お祝いの食事をするのでしたが、クルドの異教徒である少女には、――いいえ既に無所属の蓮葉女(アノニマ)には、そして獣(ゾーイ)には関係の無い事でした。十一月の空気は冷えていて息を白く凍らせました。
ドアがノックされました。ハンスは――ウェーバーは、やや警戒するようにステアー機関拳銃を握りました。足音の数が多かったからです。ほどなくして扉が開きました。それは三人組で、武装しており、その中のリーダーらしき女性が、
「やあやあ。酷い姿じゃないか、カウガール」
と、笑みを湛えたまま言いました。カウガールと呼ばれた浅黒い肌の少女は、黙っていました。
「――誰だ?」
ウェーバーが言いました。すると右手の黒人男性が、彼の肩のドイツ国旗の記章を見て答えました。
〈ドイツ人(アルマン)か?〉
男がフランス語で言うと、ウェーバーはドイツ語で答えました。
〈フランス人(フランツェーズィッシ)か?〉
〈ああ、それがどうした〉
お互いはドイツ語もフランス語も理解しているようでしたが、お互いに自国の言語を譲る気配はありませんでした。それでも意思疎通できているのなら、その点で問題はないのですが。
〈――お前の名前は?〉
〈人に名前を訊く前に、まず自分から名乗ったらどうだ〉
〈なるほど、フランス人らしく理に適っているな。俺はウェーバー。カール=マクシミリアン・フォン=ウェーバー〉
〈音楽家か? 俺はマニング……いや。――ジャンだ。ジャン=ポール・カルヴァン・ド・ボーヴォワール〉
〈哲学者か?〉
〈人は女に生まれるのではない、女になるのだ〉
〈その点は同意する。が、先の質問に答えろ〉
〈俺たちは民間軍事警備会社『一匹狼(マーヴェリック)』。異端児(アンファン・テリブル)の集団さ。お前も、クローゼットの中か?〉
〈……ああ、そうだ〉
〈なら、話が早い。俺もそうだ〉
男性的な筋肉質の二人は短く会話を済ませると、いそいそと並んで室を出てゆきました。三人組の左手の白人の男――フランス語もドイツ語も分からない軍曹が、ぽかんとして、
「……ありゃ、お互い、なんつってんだ?」
と、言いました。少女が意外でもなさそうに目を逸らしながら、
「……別に、ただの……」
〈お互いに一目惚れか?〉
中尉が茶化すように笑いながら、フランス語でそう言いました。
「…………」
少女が黙ると、女性は苦笑するようにしながら、
「そう仏頂面になるな。依頼された届け物があるんだ。少し気の早いクリスマス・プレゼントだとでも思ってくれ」
と言って、まず一丁の拳銃を差し出しました。
「――これは、お前が持ち込んだものだろう?」
それはフランス製の自動拳銃でした。少女が『武装した人(ジャンダルム)』と呼んでいたもので、9ミリの銃口には抑音器が装着されていました。少女は黙ってそれを受け取ると、ぎこちない義手の動きで作動を確かめてから、左脇のからっぽのホルスターにしまいました。
(……私の棄てたものなんか、私しか拾って使わないんだ……)
少女はひとり思いました。琥珀色の狼(アンバー)の瞳が燃えていました。
それから女性――配達員のクローディアは、灰色の毛皮で出来たフード付きのポンチョ(それは動物の頭を被るようになっていました)と、その牙で出来た勾玉のようなアクセサリー、それと、桃の木を芯材に、動物の骨や腱を貼り付けたやや小振りな複合弓(コンポジット・ボウ)と、その矢筒とを差し出しました。
「…………」
少女は黙ってそれらを受け取りました。それから、彼が本当に死んでしまった事を知りました。しばらくそれらを抱きしめていました。涙は不思議と出ませんでした。それから言いました。
「……矢は、無いのか……」
するとクローディアが笑って答えました。
「矢筒に入れてある」
それは葦の茎を乾燥させて作られた矢でした。矢羽は孔雀のものでした。また革で出来た丈夫そうなグローブや、狼の毒(トリカブト)の小瓶なども一緒に入っていました。
それまで黙っていた白人の男――ギルバートが口を挟みました。
「使うか、使わないかはお前次第だが……まぁ。火薬を使わない分、弓は銃よりも随分静かなもんだろう。実際、暗殺用として十字弓(クロスボウ)が主流だった時代も長い。あとは、お前の腕次第だな」
腕次第。と言って彼は、少女の失くした左腕、それからそこに装着された義手を見て、思わず口を噤みました。彼にもそのくらいのデリカシーはあるのです。少女は義手をギシリと握りしめました。
それからクローディアは、ひとつの冊子――それは偽造旅券(パスポート)でした――を差し出しながら、こう提案しはじめました。
「聞いたよ。海へ行くんだって? それもわざわざ国境を越えて? ――どうするつもりだった? まさか、国境の兵士たちを皆殺しにして進むつもりだったか?」
「…………」
写真の中の少女はやや微笑んでいました。たぶん、それは彼が撮った写真に映った自分なのでした。
「カウガール、私たちのところに来い。我々がお前を飼って(アプリボワゼ)やる。そしたら、この旅券はくれてやろう」
女性はヒラヒラとそれを餌のようにちらつかせて見せました。
一匹狼(ローグ)の少女は、それに目もくれず呟きました。
「……私は、誰の指図も受けない……誰の支配下にも、ならない……私は、欧米人が言うところの、『個人』(インディヴィジュアル)であるはずだ……」
クローディアは、やや意外そうに眉を上げると、しかしすぐにいつものように微笑んで言いました。
「ふむ。いいだろう。それも個人の選択だ。個人の責任だ。だからカウガール、私はお前が好きだよ」
「…………」
クローディアは、ベッドの上にぽふりと偽造旅券を投げると、踵を返して手を振りながら言いました。
「それじゃ、な。ゾーイ・ビント=イスマーイール・アル=アシナ。また会う事もあるだろう」
「……二度と、その名前を呼ぶな。ジェーン・クローディア・サンダース元中尉」
分かった、分かったと笑いながら、彼女は部屋を出てゆきました。ギルバートも慌てて彼女に付いてゆきました。
少女は、偽造旅券を義手で手に取ると、しばらく眺めていましたが、ふと力強く――あまりにも幼い暴力性で――そのままぐしゃりとそれを握り潰して、それから窓の外へ投げ棄てました。それは雪の中に隠れるようにして、やがて見えなくなりました。――飲み干されたスプライトの缶が、黙ってその音を反響させていました。
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