9.海を知らぬ少女の前に麦わら帽の我は (3)
浅く雪の降り積もる黒の海の中に、ぽっかり浮かぶ火の島がありました。人間の原始の発明は、冬の寒さを凌ぐために不可欠のものでした。そうでなくとも冬至の近付く北半球では、夜の長さは日々延びてゆき、馬とロバ、それに男と女の二匹と二人は、合わない歯の根をがちがち言わせながら、虚無の宇宙空間へ放熱してゆく孤独の寒さに震えていました。森の中で炎は揺らめいており、そして伸びる影も同様でした。
(花は私を嘲笑う、草は黙って踏まれて怒りを蓄える。空は泣いているから雨が降っていて、風は気楽にあちこちを漂うだけ。ああ、月、星、太陽が眩しくて見えない。夜の世界に生きるしかないんだ)
ぱちん、と湿気った薪が弾ける音がしました。寒さと疲れに身体をぶるぶる震わせながら、ヨーイチがアノニマに言いました。
「なぁ、少しはちゃんと寝ろって。おれが見てるからさ」
「お前に私が守れるか? 銃の撃ち方だって、知らないくせに」
「信用ないのな」
ああ、とアノニマは答えました。その代わりと言ってはなんですが二人と二匹の周りには無数にピアノ線のワイヤートラップが仕掛けられていて、近付いたものを爆殺するように出来ていました。
「火を消せ」
「寒いだろ」
「的になる」
「煙草、いいか?」
(マッチ擦るつかの間海に霧深し 身捨つる程の祖国はありや)
「……一本、だけだぞ」
『甘いなぁ、ゾーイは。そういうところが命取りになるんだよ』
幻聴がそう言って、ヨーイチはラッキーストライクを一本取り出して火を付けました。煙草の紫煙は白い息と混じって、やがて分離し霧散しました。アノニマが訝しがって言いました。
「お前、マルボロじゃなかったか」
「冬はラッキーストライクに浮気するって決めてんの」
そうだったか、と不安そうにアノニマが言って、ヨーイチは煙草を吸いながら焚火をぱたぱたと消し始めました。周囲はすっかり月明かりだけになって、煙草の灯だけが暖かいのでした。
「ヨーイチ、こっちに来てくれ」
「なんで?」
「寒いだろう」
「おれは結構あったかいよ。ポンチョ着てるから」
「私が寒いんだ」
「火を消せって言ったくせに……」
「――ああ、そうだ。お前は着込んでいて暖かくて、的になるから火を消せと言ったのは私だ。だから私のところに来てくれ」
ヨーイチはなんだかしぶしぶアノニマの隣に座りました。それから アノニマは、寒さに震えない義手の腕を差し出して言いました。
「一本、くれ」
「煙草なんて毒とか言ってなかったか?」
「麻がもう無いんだ。紛らわしたい」
「子供は吸っちゃいけません」
「いいから」
アノニマは煙草を奪って一巻きを咥えると、ヨーイチは煙草の先端をくっつけてそれに点してやりました。静かに紙巻の燃える音だけがしていました。
(他人を不安発生装置として利用している状態を、依存という。不安は生きる理由になるから。少なくとも、縋るものは見つかる)
自分は神に愛されているか。それが問題でした。他者の考えを読む事ができないために、不安と懐疑は増大してゆき、まやかしの言葉が頭の中で反響(こだま)する。それはやがて誰の言葉でもなくなり、自分自身を縛る鎖となる。その重みを感じている間だけ、生きている実感を伴う。人は生まれながらに言葉の奴隷となるのです。
あ、そうだ。とヨーイチがとぼけたように言って、鞄から新聞包みを取り出してアノニマに渡しました。包みを開けると、それは、人間の赤ん坊の死体でした。思わずぎょっとしましたが、ヨーイチは気にせず続けました。
「キャベツ。来る途中で見つけたんだよ。予防にはビタミンだぜ」
アノニマは、光を失くした虚空の瞳が覗いてくるのを覚えました。ヨーイチはキャベツと言っている、私の頭がおかしいのだと。きっとまた幻覚を見ているんだ。そう思い込んで、それを頭から、ばりばりと生のまま齧りました。食物繊維たっぷりのそれを不在(アブサン)という名の酒で流し込み、飲み下しました。吸血鬼である牝狼モルモーのように。死体はよく冷えていてなんだか味はしませんでした。
「……うまい。気がする」
飢えたオテサーネクは気付けば既に半分くらい食べていました。タブーを犯した感覚と、生きるための欲求とが競り合っていて、自分の居場所がどんどん曖昧になってきました。
「あんま食い過ぎると腹が張るぜ」
ヨーイチはガサガサと死体の残りを新聞紙で包むと、二人は寒さに身体を寄せ合いながら、歯をかちかち言わせ、月の柔らかな光に照らされて、いつだか眠りに落ちてゆくのでした。
…………もしも世界が平和だったら。きっとレッドが私のお姉ちゃんだったんだろうか。ヨーイチがお父さんで、ペニナがちょっと嫌な感じのお母さん。叔母さんや親戚の兄ちゃんがクローディアやギルバート、気さくなカップルがウェーバーとマニングで……そうしてアポロが、私の双生児(ふたご)。そうやってみんなで楽しく、笑いあったり、支えあったり……ああ、でも、こんな妄想は無意味だった。戦争がなければ、彼らや彼女らとは、出会う事もなかったのだから。
あの小さな寂びれた村で。きちんと女子割礼(ハテーナ)の儀を受けて。閉じられた村の中の誰かと族内婚をしていたことだろう。取引の通貨として。子供を産み、そして育てて……死んでいく。外に出るとはすなわち穢れる事なのだ。我々は内に閉じられ、保護され、汚れを知らないまま老いていく。それを幸福だと、あるいは素朴さ・純粋さ(アンアフェクティッド)を――そして民族や文化を失わないためだと信仰しながら。
我々は楽園の外に放り出されたアダムの子なのだ。孔雀神(マラク=ターウース)に唆されて禁断の麦を食したが為、産みの苦しみを与えられた女(エヴァ)なのだ。――ああ。いやだ、いやだ、女になんて、なりたくない……どうして神は子供を産む苦しみを? 人はみな不幸になるだけなのに。月日が流れて赤ん坊は少女を経て女になって、あるいは母となってやがて老婆となり死んでいく。その間じゅう、ずっと、誰かに消費され続け……誰かを消費し続け……都合のいい物語のお姫様(プリンセス)だったと。自分を欺きながら……人は、通過儀礼(イニシエーション)を経る事で大人になっていく。あるいは秘跡(サクラメント)であったり、あるいは洗礼(バプテスト)であったり、あるいは告白(コンフェッション)であったり……そこからあぶれた負け犬たちは、こうやって地面を這いつくばって、後ろ指を差されながら、あるいは後ろ指を差されているという妄想に囚われながら……という妄想に囚われながら。神という想像上の他者に愛される事もなく、神は既に死んでおり、そこには物理的・肉体的(フィジカル)な動きしかない。人はそれに固執し続けるのだ。――ああ、そして、言葉も同じだ。肉体の音声から疎外された言葉は、保存されるために離散(デジタル)され組み合わされる事で意味を持ち、文字となって、そして書物に記録されていく……名前のない子供は、まるで初めから居なかったのと、同じように。……月日が流れて……子供も流れて……愛されなかったという名前の子供の事を考えるたび、流れ星がひとつ流れるとしたら、世界じゅうすべての願い事を叶えるのに、果たして不足だろうか? ……堕胎されゴミ箱に棄てられた、名前のない子供の事を考える……同級生を刺した児童の事を……すっかり疲れ切った銅メダルのマラソン選手の事を……首を吊る会社員の事を……前線で散る無名戦士の事を…………我々は――これは最も広い主語だが――人間は、愛の為に他人(ひと)を殺せるという。人はほんらい、自分の為には他人を殺せない。何故なら相手も同じ人間であるから。しかしその正義、信仰、友人、恋人、そして家族、民族、国家……その愛の手に基づいて、それらを守るために、そしてそれらの幻想に没頭している限り――ヒトは、他人(ひと)を殺す事ができる。……共有された、『絆』という幻想に基づいて…………
ぱちりと眼が開かれました。しん、と空気は冷たく澄んでいて、隣には誰も居ないのでした。アノニマは狼の毛皮で出来たフードを被りました。厚手のタイツも凍ったように冷たくて、関節をゆっくりとほぐすように動かしましたが、義手は震えずまた寒さを感じる事もないのでした。
「……ヨーイチ?」
少女は震えながらそう呟きました。まだ陽は昇っていませんでした。
途端。ひゅるるるる、という音が響いて、森の木々を折り倒しました。爆音は辺りにつんざいて、木の破片がそこらじゅうに飛び散りました。
――迫撃砲だ! そう言ってアノニマは馬を呼ぶと素早く飛び乗って、駆けさせました。森を抜けると照明弾が上がって、辺りを昼の明るさにしました。アポロがニヤニヤ笑って言いました。
『おやおや。怪しいじゃないか。あいつが情報を流してるに違いないぜ、ゾーイ。いつも居なくなるだろ? 君の言う事も従わない。夜の焚火なんて、いい的になるに決まってるじゃないか』
「――小便にでも、行ってたんだろ」
『君は優しいねぇ、ゾーイ。もっと人を疑う事を覚えなきゃ。他人の考えている事が、他人の行いが、どうして分かる? 信用できるのは、自分だけだぜ』
「私は、自分も信頼しない。この世に確かなものなんて、……どうせ、――そうさどうせ、何一つないんだ」
そう呟くと、背後から亡者(アンデッド)たちが追いかけてきました。空にはハルピュイアが飛んでいて、狼の軍団も地面を駆っていました。アノニマは馬を走らせながら、葦の矢を射って応戦しました。それが本当の敵かどうかも曖昧なままに。矢はハルピュイアの姉妹の眼球を貫いて、けたたましい叫び声を上げさせました。機械の弓手は震えることなくぴたりと安定していて、引き手に二の矢、三の矢を握って矢継ぎ早に連射しました。
白髪の山を登っていました。陣地では迫撃砲はぽん、ぽん、と愉快な音を鳴らして撃たれていました。アノニマは手榴弾を取り出して歯でピンを抜くと走りざまに投げ付けました。数秒たって破片が飛び散り、馬を降りながら素早く矢を射って黒装束たちを殺しました。すると敵が応戦してくるので、アノニマは手近にあった死体のシモノフ騎兵銃を手に取ると、右手で初弾を排莢して何度も引き金を叩きました。伏せて転がりながら障害物に隠れると、奪った弾帯から挿弾子を取り出して装填し、フロントサイトを展開しました。
黒装束はイギリス製スターリング短機関銃などを、当てずっぽうにぱらぱら乱射していて、それが弾切れになったのを見計らって、――二二ミリ小銃擲弾(ライフルグレネード)を大木に向けて射出しました。轟音がして木がミシミシと倒れると、それを死角にしながらアノニマは、素早く空包の撃ち殻を排莢すると、騎兵銃の銃剣を展開して突撃しました。周りの狼たちもそれに加勢して、アノニマは側面から一人を刺し殺し、狼たちは正面から撃たれながらも何人かを噛み殺し、一帯は雪を血で染める阿鼻叫喚の図となりました。銃剣に刺された黒装束から伸びる騎兵銃は、まるで墓標のようでもありました。
撃鉄を起こす音がしました。一人生き残りが居て、慌てて拳銃をガチャガチャとやっているところでしたので、アノニマはゆっくりと近付いて脇から自動拳銃『武装した人』を抜きました。そして撃ちました。抑音器(サプレッサー)は既に消耗しきってその効果を失くし、発射音は寒空に響いて男の顔を凍らせました。
「ひぃっ! ころ、殺さないで」
「――お前らは、誰だ? どうやって私の位置を知った? お前らに指示を出しているのは、どこの誰だ?」
アノニマは一斉に質問して、男から拳銃を取り上げると、あっという間に分解して部品をほうぼうに投げ棄てました。
「――言えるわけないだろ! 俺たちゃただの、雇われだって! 給料だって安いんだ! それで食わせなきゃならねぇ!」
「……お前の話は、私にとってどうでもいい。不幸な身の上を語るのは、さぞ、気持ちのいい事だろうな?」
アノニマは男を組み伏せると、拳銃を男の後頭部に向けました。
…………新日本赤軍。ああ、そうだ、私の所属していた組織。私の故郷。私の家。もう存在しない。無秩序な武器兵器による愛と平和、エゴイストの連合。我らの目的は、天照大御神の子孫たる『天皇(エンペラー)の解放』。伝統と呼ばれる右の翼をもぎとって、全体主義と呼ばれる左の翼をも奪い、彼ら彼女らを地へと還す。カーストの破壊、個人の創造。……我々はもともと、同じ人間であったはず……だのに、十字架にかけられた主イエスを現在まで繰り返し続けるように……偶像とも化さず、鎖に繋がれた自由の女神のように……振る舞い続ける生身の個人。おお、畏ろしい、畏ろしい…………そしてそれを贖罪の羊(スケープゴート)として、祀る人々の住まう国。六〇余年の平和神話は、誰かを喰い物にすることで成り立っている。それはちょうど、私の平穏が日向(ひむかい)アポロを殺すことで成立するように……陽の沈む方角の西方浄土(ニルヴァーナ)を目指すように……黄金の林檎の生る黄昏の娘たち(ヘスペリデス)の園を幻想しながら…………ああ、幼児供犠の神モレクよ…………王権を継ぐ赤子を生贄として焼き殺して捧げ……それは今でもこの地上のそこかしこで繰り返されており…………七大天使の吹くラッパ…………銃声や砲火に消ゆる子供の哭き声…………
銃声が響きました。それでアノニマは眼を覚ましました。睡眠不足の頭はまだぼんやりしていて、一気に呼吸をすることで酸素を脳に送り込みました。日の出前の森は少し白く霧がかっていました。
『追われているようだね』
幻聴のアポロが茶化して言いました。
『どうやって、君の位置がこうも分かるんだろうね? やっぱり、あの男が関係してるのかな? 近頃ずっと、見ないしさ。それとも君を追って今の罠にかかって、死んじゃったかな?』
「…………」
アノニマは黙って準備を進めました。シモノフ騎兵銃の銃剣を展開し、少しボルトを引いて装填されているのを確かめ、スターリング短機関銃の三十四連弾倉を横から叩き込んで、すぐに撃てるよう負い紐で吊り下げました。紐に狼犬の牙と孔雀の羽根が飾られた、琥珀の宝石が胸元で雪の光に照らされていました。
「…………」
ふと指に触れると、それは仄かに暖かいのでした。アノニマはそれを服の下に隠しました。狼犬の毛皮のフードを被りました。それから、第三世代の赤外線(サーマル)ゴーグルを装備しました。
『あちゃー。それで、現実と幻覚との区別をつけよう、ってんだ。考えたねぇ、ゾーイ』
でも肝心の脳味噌がいかれてちゃ、結局効果はあるのかな? とアポロが呟きました。それでも暗闇の中で視界を確保できるのは、状況を有利にする為には不可欠でした。
じりじりと敵が近付いてきているようでした。赤外線ゴーグル越しでは、彼らは単なる光の染みとしてしか映らないのでした。アノニマは呼吸を整えて耳を澄ましました。……枝を踏む音、呼吸の音。話し声、足音、……森に響く心臓の動く音……やがて仕掛けられた跳躍地雷(バウンシング・ベティ)が、点火して辺りに散弾を撒き散らす音。肺に吸いこまれた空気はやがて叫び声となって出力されて、いずれ止まりました。
『――今だ、やれ! 撃つんだ、アノニマ!』
アノニマは光の染みに照準して引き金を叩きました。向こうも赤外線ゴーグルを装備しており、ケミカルライトの敵味方識別装置(IFF)を付けていたため、それを順番に狙い撃ちにすれば簡単でした。相手も撃ち返してきましたが、アノニマは撃つたびに場所を変えつつ敵を誘導して、うまくトラップに引っ掛かるようにさせました。
『いいね、ベトナムゲリラの戦術だ。僕が教えた通りの』
常に動き続ける。相手を撹乱する。状況を優位にし続ける。それが勝つための方法であり、アノニマの選んだ生存戦略でした。そうやって自らを武装し、論理(タクティクス)で相手を上回る。そして誰も彼もを寄せ付けない。近付いてきた敵を、短機関銃で薙ぐようにして撃ちました。もはや強くなり過ぎた架空の武装少女は、誰も傷付けることができない。隠れん坊で逃げ続け隠れ続けていたら、気付けば自分が鬼となっていた。
銃声が止みました。全ての光の染みは斃れました。アノニマは赤外線ゴーグルを外しました。そのまま立ち去ろうとしましたが、よせばいいのに赤ん坊の泣き声が響いて、アノニマは振り返って駆け出していました。
非武装の民間人が、雪の上に何人も死んでいました。それは少しばかり魚屋の陳列に似ていました。どこまでが本当で、どこからが自分の被害妄想か。それは分かりませんでしたが、死体は動かずに体温を大気中に放出していくのみでした。
『――うん、うん。仕方ない犠牲だよね。そうやって自分を正当化してきたんだもんね。――君は奴らを敵だと思ったんだんだから、しょうがないよね』
アポロが言って、アノニマは眩暈を覚えました。赤ん坊は返り血を浴びていて、瀕死の母親が手を伸ばしかけていました。
アノニマは母親を抱き起こすと、傷口に生理ナプキンをテープで巻いて止血しました。だけどもう駄目みたいでした。
「…………い……………て……」
母親が息絶えると赤ん坊はよちよち歩いてワイヤーにかかって爆死しました。誰にも助けられないと分かったからです。アノニマは赤ん坊を助ける事もできましたが、自分の命が少なからず惜しいと思った為に、怖くて、踏み出せなかったのでした。雪は平等に生きたものにも死せる魂にも降りかかっていました。ハルピュイアの姉妹が、地上に降りてきて死肉を喰らっていました。
「それがお前のし続けてきたことだ、ゾーイ」
どこからか声がして、アノニマはそれに向けてスターリング短機関銃をフルオートで連射しました。狐のお面の女は日本刀でその銃弾を弾いて、続けて言いました。
「お前は、お前の基準で世界を量る。そしてそうする事が当然であるかのように振舞う。そうして人を、罪なき人々をも殺めてしまう。命には命を。目には目を、鼻には鼻を、耳には耳を、歯には歯を。凡ての傷害に同等の報復を」
サキーネが日本刀を収めると、死体たちが一斉に起き上がってアノニマに襲いかかりました。それは血の復讐でした。そしてアノニマは、――逃げました。馬を駆らせて。過去の幻影に囚われる前に。失くした腕の幻肢痛が生きろ、生きろと叫ぶように。
気付けば、追手を振り切っていました。葦毛の蒼褪めた馬も、ヒィヒィ息を荒くしました。アノニマは失くした冷たい左手で馬を撫ぜてやりました。名前の無い馬は、ちっとも嬉しくないようでした。
間抜けなロバの足音が近付いてきました。アノニマは振り返って拳銃を取り出し構えました。それから叫びました。
「来るな!」
「……どうしたんだよ、アノニマ。らしくないぜ」
ぴんと張り詰めた空気は、風もなくてただ雪は垂直に降り注いでいました。
「どうして、生きている。何のために、どうやって」
ヨーイチは一瞬ぽかんとして顔を歪ませましたが、
「別に、普段通りにだぜ。逃げて、隠れて。そんで、俺は写真を撮って生きてんだ」
瞬間(いま)を切り取る仕事をしている。そういう事じゃない、とアノニマは言いました。お前が生きている事が不思議でならない。この戦争状態で。誰も味方に付けずに。どうして一人で生きてこれたんだ。おかしい。狂っている。胸の穴をどうやって埋めているのだ。結局誰とも分かりあえない我々の孤独を。満たしているのは何なのだ。
ヨーイチは、はぁ? とでも言うようにして、笑って、
「水臭いこと言うなよ。俺と、お前は――」
『「親子でもなければ恋人でもない。ただの赤の他人どうしだ」?』
「言うな!」
アノニマは再び銃口を強く向けました。彼が裏切っているかどうかはどうでもよく、ただ、言葉によって何かが規定されてしまうのが、怖かったのです。寒さで震えるせいかサリンの後遺症か、うまく声が出ませんでした。
「よ、よ、ヨーイチわた、しはわからないじぶんが善なのかそれ、とも悪なのか」
「はぁ? アノニマ、お前むかし自分で言ってたじゃねぇか、善と悪を単純に分けすぎるな、って」
アノニマは握った拳銃をぶるぶる震わせて唸りました。
「ううううう。うううううう」
『そうだ、アノニマ。奴を殺してしまうんだ。そうすれば奴は永遠に君のものさ。――そう、僕のようにね』
陽一は鏡でした。鏡映しの自分の鏡像は、彼を軸に自分の眼に映って、それは、虚言を嘯くアポロの姿によく似ていました。誰も信用できない。言葉を信じられない。それらは全部ウソだ。本音を隠し、建前だけで生きている。誰かを贖罪の羊(スケープゴート)に仕立て上げ――自分たちはのうのうと、幸福で恵まれた日々を生きている。そんな奴らが許せない。私はそうやって生きてきた。そうして、眼前に映る、こいつら日本人(ヤバーニー)たちも。アノニマはぎりりと歯を食いしばりました。抜けた乳歯の穴に永久歯が生えていました。それもまたシクシクと痛みました。失くした左腕と同じように。虚構の痛み(ファントムペイン)でした。
『撃つんだ、武装少女。――さぁ撃て、撃つなら胸だ、愛(こころ)なき者の心臓を撃ち抜け』
鏡の中のアポロがそう言いました。アノニマは、――その心臓を狙って。それから、ゆっくりと引き金を絞ってみました。
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