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第15回② 髙宮 有介先生 患者に寄り添い信念貫く。緩和ケア普及に挑んだ医師の軌跡

「医師100人カイギ」について

【毎月第2土曜日 20時~開催中!】(一部第3土曜日に開催)
「様々な場所で活動する、医師の『想い』を伝える」をテーマに、医師100人のトーク・ディスカッションを通じ、「これからの医師キャリア」を考える継続イベント。
本連載では登壇者の「想い」「活動」を、医学生などがインタビューし、伝えていきます。是非イベントの参加もお待ちしております!
申込みはこちら:https://100ninkaigi.com/area/doctor

発起人:やまと診療所武蔵小杉 木村一貴
記事編集責任者:産業医/産婦人科医/医療ライター 平野翔大

 「小学校から大学まで、青春の情熱をかけた剣道こそが、私の信念の基となっています。」と語るのが、緩和ケアを中心に、「死からいのちを考える」活動をしている、髙宮有介先生だ。

 医学部2年生で、東医体(東日本医科学生総合体育大会)剣道部門で優勝した髙宮先生にとって、喜びも挫折も教えてくれた青春を彩る剣道こそが、「心と身体のつながり」に関わる活動に携わる先生の軸を構築している。

 今回は、剣道から外科、そして緩和ケアと辿った、髙宮先生の軌跡を伺った。

髙宮有介先生
1985年 昭和大学医学部卒業。1992年に昭和大学病院内で緩和ケアチーム活動を開始する。2001年に昭和大学横浜市北部病院 緩和ケア病棟に専従し、2007年に昭和大学医学部 医学教育推進室に専従。医療系大学の学生、医療者向けに、死から生といのちを考える講義を発信してきた。2015年より、医療者自身のケア、マインドフルネスを学び、講義、講演を開催。大学病院の緩和ケアを考える会 代表世話人・日本GRACE研究会 世話人代表、日本死の臨床研究会 顧問を務める。

「希望を叶えることで痛みが和らぐ」
病院で結婚式を実現

 医学生時代、喜びを味わったのも、挫折を知ったのも剣道だった。輝かしい成績を残した2年生の時とは対照的に、3年生の時にはアキレス腱断裂と復帰、5年生、6年生で主将として臨んだ大会では自身のせいで優勝を逃してしまい、心の弱さと向き合うきっかけにもなった。心の在りようが身体のパフォーマンスに影響した大会での経験や、九段を所持する、高齢者である恩師の強さに、心と体のつながりと、医療との関連について考えるようになっていった。

 髙宮先生は、剣道部、医学生を経て外科医としてキャリアをスタートしている。その当時の外科医は、がんの手術をした主治医が、再発転移、看取りまで担当していた。その中でも髙宮先生は当時の外科医としては珍しく、ベッドサイドで終末期の患者の痛みや、家族の苦しみと向き合う時間を特に大切にしていた。

 外科医時代に出会った印象的な患者がいる。
 ある23歳の女性は、18歳の時に乳がんを患い、その転移が骨や肺に見られて予後の厳しい状況だった。しかしながら、女性は「入院はしたくない」と話した。彼女には、婚約者の男性との生活を続けたいという願いがあったのだ。さらに婚約者の男性から「どうしても結婚式を挙げたい」と申し出があった。

 骨転移による身体の痛みと日々戦う彼女の治療に、医療者として励む髙宮先生は、その訴えに困惑するも、「懸命な二人の希望をなんとか叶えたい」と考えた。夢を実現させるべく奔走するうちに、思わぬ出来事を体験する。結婚式の引き出物選びや招待状を準備する過程で、それまで和らぐことのなかった彼女の身体の痛みが和らいだのだ。病院の会議室を結婚式場として、バージンロードを敷き、牧師さんにも来ていただき、二人の結婚式を無事挙げることに成功した。

 「痛みは、薬や医療だけでなく、患者の夢や希望、目標を支えることによって、和らげることができるのだ」
 心と体はつながっている。そんな剣道部時代の実感を振り返りながら、患者に対しても、心のケアで治療の結果や満足感は大きく異なるのだと確信をもった。そして、緩和ケアの可能性に目が向くようになった。

英国で見た緩和ケアに驚き
「日本に持ち帰りたい」

 しかし、当時医師3年目であった先生が、大学病院の中で、説得力を持って緩和ケアの効果を証明することは簡単なことではなかった。本の知識だけではなく、本場のホスピスを見て勉強することで日本における緩和ケアの普及に努めたいとの思いから、英国のホスピスで研修する。現地で目の当たりにしたのは、医療者やスタッフが身体の治療のみならず、社会的、精神的、スピリチュアルなケアをも担う姿であった。

 患者の痛みに寄り添いたいと考える医師は数多い。ところが、日本の医学部で学ぶのは病気の診断と治療のことばかりである。治らない人に対しどう向き合うかについて考える機会はほとんどない。だからこそ、これまでの現場でも「どうしたらよいのか」と戸惑う医療者に出会うことは少なくなかった。

 「このケアを日本に持ち帰りたい」

 英国の急性期病院では、医師や看護師が、ホスピス病棟を持たずとも緩和ケアを提供していた。病棟がなくとも、コンサルテーションから始めればよい。数々の実践的な学びを経て、医師7年目にして緩和ケアチームを立ち上げる。先生の新たなキャリアが始まった。

覚悟を決めるも、冷たかった周囲の視線

 髙宮先生が医師になったばかりの当時、ターミナルケアを「敗北の医療」と呼び、「医師の仕事ではない」と主張する人も少なくなかった。しかし、当然のことながら人間はどこかで死を迎えるものだ。

 「最期の時をその人らしく迎えるための専門家がいてもいいのではないか」
 その信念が、髙宮先生のモチベーションを支えた。

 「最期の時というと、『避けたいもの』と思われがちですが、緩和ケア医は患者さんの人生の大切な物語を聞ける。言霊や家族愛、人生や仕事のことに触れられる瞬間です。そこにやりがいを感じます」

 外科医のキャリアを通してでも、やりがいを感じられなかったわけではない。初期研修先はいわゆる野戦病院であったが、そこでは自分の手術や救急対応で患者が回復する姿を目の当たりにして、奮い立つことも多々あった。
 「でもそれは、自分がやらなくても、他の人がやりがいを感じ、やりたいと思うだろうという感覚がありました」

 それに対して終末期医療は、「必要であるにもかかわらず、みんなが避けて、目を向けていない部分だ」と考えていた。光が当たらない分野に、自分自身の人生の役割を見出したのだと髙宮先生は語る。

 死というのはセンシティブなテーマだ。やりがいを見出し、覚悟を決めた髙宮先生に対する周囲の視線は、はじめは冷たかった。中には、「怪しい宗教に入ったのではないか」と心配する親戚もいたと話す。それでも強い信念を持って進めたのは、目の前にいる患者のニーズがはっきり見えていたからだ。終末期を迎える患者さんにとって、痛みを取り除くことも心のケアも、家族のケアも、その必要性は現場のベッドサイドで座り込んで積み重ねた信頼関係に基づく実感だった。

 英国で近代ホスピスを立ち上げた、シシリー・ソンダースという医師が遺した言葉にこんなものがある。

 “I did not found hospice. Hospice found me.”
 (私がホスピスを創ったわけではない。ホスピスが世界の中で、人生の中で私を見つけてくれた)

 医師3年目の力は不十分さもあったが、英国での学びを経て、また、メディアに取り上げられた追い風もあり、地道に志のある医師同士のネットワークが広がった。

 こうして昭和大学で1992年に医師3人からスタートさせた緩和ケアチームには、看護師や薬剤師の兼任のみならず、音楽療法士や、当時では珍しい、僧侶らの協力もあったという。

緩和ケア医が向き合う次の課題
医療者のセルフケアも重要

 現在でこそ緩和ケアというと一般的になってきたが、社会的に看取りのもつ「死」のイメージが与えるインパクトは払しょくしづらい。診断時から、人生の先に必ずある「死」をどう受け入れるか考える機会が重要だ。

 また、緩和ケアという概念が医療者の中で少しずつ浸透する一方で、「スピリチュアルケアという言葉の大事な要素が薄まっているように感じる」と髙宮先生は語る。ケアの真髄である、生きる意味や役割といった患者の心の痛みにフォーカスする機会のさらなる提供が、先生の次なるステップだ。

 さらに先生が緩和ケアと同時に力を入れてきたことがある。「医療者自身のケア」である。医療者には、「理想ではこうしたいけれど、実際にはこうならない」という葛藤に向き合い続ける力が不可欠だ。英国ホスピスの看護師の言葉を引用しながら、髙宮先生は、こう語る。

 「“Not doing but being.”という言葉があります。治療や緩和に限界があっても、患者の苦悩に寄り添う医療者の果たす役割は大きいんです」

 髙宮先生が、解決しないことに悩む医療者のセルフケアをもう一つのテーマに据えたきっかけは、苦しい体験だった。自身が関わりを持つ医学生の中に、自ら命を絶った学生がいたのだ。先生自身が深く悩む中で、2013年のモントリオールで開催された国際会議で、医療者のセルフケアとしてのマインドフルネスと出会った。

 「マインドフルネスのゴールはcompassion(慈悲・思いやり)です」

 「共感」は時に疲労が伴う。しかし、compassionは「私はあなたではない」という前提のもとで、感受性の高い医学生が継続的に患者さんと関わりあい、深い信頼関係を構築できる医療が、それぞれの幸せにつながると髙宮先生は考えている。だからこそ、継続的なセルフケア教育プログラムの構築が必要だ。

 教育に奔走する髙宮先生は、シドニー大学の緩和ケア医から受けた言葉がモチベーションの一つになっている。

 「自分が診られる患者の数は1年に数百人だけれども、医学生や若い医師を変えることで、何千人、何万人そして永続的に患者へのより良いケアを提供できる」

出会いは運命。その先に道を見つける

 最後に、髙宮先生から日々を奔走する医療者や学生へのメッセージを伺った。

 「全ては人との出会いやご縁だと思います。何気ない出会いやご縁は奇跡の連続です」

 数ある選択肢の中から葛藤を経て選んだ道が、出会いを通して、振り返ると自分の運命だったのだと確信できるのだと話す。髙宮先生の場合、人としての弱さを知る経験で人間の心に目が向いた。そして、出会いを導いた。どんなにネガティブに感じてしまう経験も、後から意味を見出し、光が見えてくることもある。

 “Not doing but being.”
 髙宮先生のあり方に、背中を押される患者や医師は、これまでも、これからも数多いことに相違ない。

取材・文:大井礼美(島根大学医学部4年)

本記事は、「m3.comの新コンテンツ、医療従事者の経験・スキルをシェアするメンバーズメディア」にて連載の記事を転載しております。 医療職の方は、こちらからも是非ご覧ください。


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