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第12回④ 柴田 和香先生 「海外の現場を見たい」国際保健で突き進む医師の行動力

「医師100人カイギ」について

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「様々な場所で活動する、医師の『想い』を伝える」をテーマに、医師100人のトーク・ディスカッションを通じ、「これからの医師キャリア」を考える継続イベント。
本連載では登壇者の「想い」「活動」を、医学生などがインタビューし、伝えていきます。是非イベントの参加もお待ちしております!
申込みはこちら:https://100ninkaigi.com/area/doctor

発起人:やまと診療所武蔵小杉 木村一貴
記事編集責任者:産業医/産婦人科医/医療ライター 平野翔大

 自治医科大学出身の柴田和香先生は、卒後9年間を千葉県の医師不足地域で内科医・麻酔科医として過ごした。臨床に没頭した9年間は充実していたものの、「自分のやっていた臨床は、ものすごく楽しいとは思えなかった」と打ち明けた柴田先生。義務年限終了後、学生時代より興味のあった国際保健のキャリアへ一歩を踏み出した。国際保健のキャリアを選んだ思いや、今後のビジョンについて伺った。

柴田 和香先生
2009年自治医科大学卒業後、9年間の義務年限を千葉県の医師不足地域で内科医・麻酔科医として過ごす。義務年限終了後に、オランダ・KIT王立熱帯研究所へ留学し、Master of Science in International Health を取得。2022年9月より、感染症危機管理専門家(IDES)養成プログラムに所属し、厚生労働省・検疫所・国立感染研究所などで研修を行う。

学生時代の仲間と厚労省で仕事することに

 長野県で生まれ、神奈川、アメリカ、千葉、オーストラリアで育ったという柴田先生は、幼少期の多くを英語圏で過ごした。

 入学した自治医科大学は「地域医療に従事する臨床医を育成する」ことが使命であり、公衆衛生に関わる卒業生も少なくない。柴田先生は、地域医療に関わるうえで医療制度の理解は不可欠であるとの考えがあり、英語が得意なこともあって、医学部入学後は「将来は公衆衛生や国際保健に関わりたい」と考えるようになったという。

 国際保健への興味から、在学中にはアジア医学生連絡協議会(Asian Medical Students’ Association, 以下AMSA)に所属し、代表も務めた。精力的に活動し、AMSAで関わった日本国内・アジア各国の医学生は多い。

 「卒後10年以上たちますが、いまだに連絡を取り続けている友だちがたくさんいます」と笑みをこぼす。

 AMSAの活動は、現在の仕事にも大きく役立っている。AMSAの代表を務めていたため、国際医学生連盟(International Federation of Medical Students’ Association)の運営メンバーなど、学生時代から同じように公衆衛生や国際保健に関心のある学生と交流する機会が多かった。

 現在、学生時代の知り合いと厚生労働省で働くことも少なくなく、仕事が円滑に進められるという。海外にも学生時代の知り合いを多く持つため、「今後は海外で活躍する知り合いとのつながりも生かしていきたい」と胸を膨らませる。

「座学の前に現場を見たい」
海外派遣が決まるもコロナが…

 自治医科大学卒業後、9年間は千葉県内で臨床医として働き、義務年限を終了した。臨床の中では産婦人科や整形外科などにも興味があり、方向転換も考えたそうだが、外科系の臨床を始めるのも、国際保健の仕事を始めるのも、1からのスタートである点は変わりない。臨床医時代に従事した一般内科や総合診療を続けることはあまり考えていなかったそうで、「もともと興味のあった国際保健の仕事にチャレンジすることにした」という。

 義務年限終了後、最初に応募したのは、2019年に厚生労働省が募集していたSTOP VPDsプログラムであった。ポリオ根絶のための公衆衛生人材育成を目的としたこのプログラムでは、アフリカと西太平洋諸国へ1年ずつ派遣され、予防接種をはじめとする感染症対策に関する研鑽を積むことができる。

 2期生としての採用が決まっていたが、アフリカへの渡航開始予定は2020年春。新型コロナウイルス感染症の影響で、無期限延期となってしまった。急遽、併願していたオランダの大学院へ留学することになった。

 「先に現場を見てから、座学で学びたい」と考え、STOPプログラムを第一志望にしていたというが、留学先のKIT王立熱帯研究所・国際保健修士課程では、公衆衛生や国際保健の基本、フレームワークを学ぶことができた。卒後10年目、体系的に物事を学ぶことの重要性を再認識し、「自分がやりたいと思っていたことを学ぶことができ、とても楽しかった」と目を輝かせる。

オランダ留学中に
ウクライナ支援の派遣を経験

 オランダ在住中、特定非営利活動法人AMDAの理事から一件の連絡がきた。「ハンガリーでウクライナ支援をするので、現地に行ってほしい」とのこと。実は、これも学生時代のAMSAの活動で得た人脈によるものだった。

 AMDAは、AMSAの設立者である菅波茂先生が、1970年代にカンボジア難民支援を試みた際、平時の人脈なしには緊急時の活動が難航する、という原体験を基に立ち上げた団体である。平時からハンガリーとの交流があったため、ロシアによるウクライナ侵攻で被害を受けた難民の支援活動をすることになったのだ。

 AMDAからの要請で、ハンガリーへ入国。具体的な活動内容が何も決まっていない段階から、ウクライナへの支援物資輸送体制の立ち上げに大きく貢献した。ハンガリー国内では、英語が通じない人も多く苦労することもあったというが、ハンガリーの医学部に通う日本人の医学生とも協力しながら、忙しい毎日を過ごした。

 同時に、ハンガリーへの派遣を通じて、自身の興味に関しても気づきがあった。「公衆衛生」や「国際保健」は、非常に幅の広い分野であるが、その中でも「不確定要素の多い紛争や災害の現場はあまり得意でないと感じた」という。人道支援よりも「開発や気候変動、環境問題などに興味がある」と柴田先生自身は感じているという。

 自分の向き不向きは「やってみないとわからない」。実際に現場に出て働いたからこその気づきである。

オランダで修士取得、WHO派遣も予定
今後のビジョンは?

 オランダで修士を取得後、日本に帰国。2022年より、8期生として厚生労働省の感染症危機管理専門家(Infectious Disease Emergency Specialist、以下IDES)養成プログラムに採用された。1年間は、日本国内で行政分野を中心に、感染症対策などに特化した業務に従事する。2年目は、WHOなどの国際機関や、各国保健省などへの派遣が予定されている。

 「海外で英語を生かして働けること」や「公衆衛生分野でキャリアを積むにあたり、行政の経験は大切だと思った」、「感染症・熱帯医学は国際保健の起源である」ことがIDES養成プログラムの志望動機だったという。

 9年間の臨床医時代に数多く見てきた生活習慣病や、運動や食事気候変動や環境問題などの分野に関心のある柴田先生。「公衆衛生のキャリアは始まったばかりですが、漠然とそちらに関わりたいという思いがあります。」と、今後のビジョンについて語ってくださった。

つらい初期研修時代が糧になった
「とりあえずやってみる」を大切に

 思い返せば、初期研修の2年間は怒涛の日々だった。ハイパー病院として知られる総合病院国保旭中央病院では、モチベーションの高い研修医が集まり、野戦病院のようで「習うより慣れよ」という風潮があった。

 「前向きになれないつらい時期もたくさんありました。以来、つらいことに直面しても、『あの時の大変さに比べたら、大丈夫』というマインドを持ち、前向きになることができています。」

 興味のあった国際保健の分野へ足を踏み出してからまだ年月は浅い。しかし、義務年限の9年があったからこそ、柴田先生は決して後ろ向きになることはない。

 「人生100年時代、70歳か80歳まで働けると思えば、まだ40年近く働けます。そう考えることで、余裕が出ます」と常に前向きである。

 大切にしている言葉は、“Don’t expect, Don’t demand, Just be open”。
 思うようにいかないことがあっても、高望みはせずに、柴田先生の強みである行動力を生かし、「とりあえずやってみる」という気持ちを大切にされているという。数年後、世界のどこかでご活躍されている柴田先生の姿をみることが、非常に楽しみである。

取材・文:伊庭 知里(慶應義塾大学医学部3年)

本記事は、「m3.comの新コンテンツ、医療従事者の経験・スキルをシェアするメンバーズメディア」にて連載の記事を転載しております。 医療職の方は、こちらからも是非ご覧ください。

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