見出し画像

第8回⑤ 北島 勲先生 富山大副学長が40年間追う「最初の患者の疑問」 

「医師100人カイギ」について

【毎月第2土曜日 20時~開催中!】(一部第3土曜日に開催)
「様々な場所で活動する、医師の『想い』を伝える」をテーマに、医師100人のトーク・ディスカッションを通じ、「これからの医師キャリア」を考える継続イベント。
本連載では登壇者の「想い」「活動」を、医学生などがインタビューし、伝えていきます。是非イベントの参加もお待ちしております!
申込みはこちら:https://100ninkaigi.com/area/doctor

発起人:やまと診療所武蔵小杉 木村一貴
記事編集責任者:産業医/産婦人科医/医療ライター 平野翔大

 富山大学の理事兼副学長を務める、神経内科医の北島勲先生。国立大学で組織全体を俯瞰する立場にいながら、今も「現場の疑問」を大切にしているという。そんな北島先生の「現場の原点」に迫った。

北島 勲先生
昭和32年高知県出身、昭和57年鹿児島大学医学部卒業、平成2年スクリプス研究所、平成6年鹿児島大学臨床検査医学・助教授、平成12年富山医科薬科大学臨床検査医学教授、平成27年富山大学医学部長、平成31年富山大学理事・副学長。医学博士(専門、臨床検査)

国立大副学長」の立場にいながら…
医師が重視し続けるもの

 富山大学の理事、副学長を務める北島先生は、医学部だけでなく大学全体の組織運営を担っている。産学連携、病院運営、情報セキュリティ管理、さらには研究不正や倫理問題など、大学の諸問題を一手に引き受けるポジションだ。大学全体の研究プロジェクト統括者として、SDGsやアルミ産業など、医療以外の分野も幅広く指揮しているという。

 「富山大学はなぜ富山にあるのか? 我々はそこを問われているんです。」

 国からの運営交付金が年々削減されている現状を打破するためには、富山県の地域にある資源を活かす必要がある。地域の産業など、富山県にしかないものにアプローチした研究を行い、その結果を世に知ってもらうことが富山大学には求められていると北島先生は話す。

 ――このように、大学のトップ層として大きな課題に立ち向かう北島先生だが、一方で臨床の「現場」を重視し、肌で感じる疑問を忘れない。「副学長の立場」と「現場の感覚」をどう両立しているのか、北島先生にぶつけてみた。

「1年ぶりに会った島民が…」
“現場の原点”となった決断

 北島先生の人生を語るうえで外せないのが、鹿児島大学時代に所属していた離島医療サークルでの体験だ。

 鹿児島県には、屋久島から奄美大島までの約300kmの間にそれぞれ100人前後ほど住む7つの島がある。当時の移動手段はというと、週に1回船が回っているだけだった。今以上に無医村問題が叫ばれた時代である。

 このサークルでは、鹿児島大学の医学生と看護学生が夏休み期間に離島の1つである吐噶喇(とから)列島の口ノ島に赴いて1軒1軒戸別訪問し、僻地の実態をみていた。一緒に夕食を取ったり晩酌したりといった交流もしていたが、その中で忘れられない衝撃的な体験があったという。

 「1年ぶりにある離島へ行くと、昨年お会いした住民の方が少し痩せているように見えたんです。その方は『最近、1回だけお餅が喉に引っかかり苦しんだよ』と笑いながら話されました。ご本人はお酒も飲めて元気そうですが、私たちが実施した検診で軽い貧血も認められました。われわれ学生が疑ったのは…教科書的には食道がんです。」

 しかし、「がんの疑いがあるから早く病院に行ってください」と言うのは簡単だが、実際はそうはいかない。住民は村でただ一人、養豚や豆腐を販売しており、精査のため島を離れてしまうと家を長く空けることとなり、生計の糧である豚の世話の問題が生じ、また、島民の生活の影響も考えないといけないのだ。

 「どうすれば良いのか学生同士で悩みに悩み、顧問の医師に電話をかけ相談したところ、『ご本人が決めることです』との回答でした。そこで私たちは住民の方に、十分な医療が受けられない無医地域で、もし本当に食道がんという、進行が早く命にかかわる病気であれば、手遅れになる危険があることをじっくりと話しました。最終的にご本人の判断で、一緒に私たちの帰る船に乗り、私が鹿児島市の病院まで同行しました。」

 検査の結果、自分たちの見立て通り初期の食道がんが見つかり、手術を受け幸いにも完治し帰島された。当時は、離島ではバリウムを含む健康診断が行き届いておらずがんを見つけるのが困難で、離島を含めて医療機関が不便な場所では、発見時にはすでに進行していたという例がほとんどだったこともあり、主治医から「よく早期食道がんを見つけた」と誉められたという。

 患者さんと直接向き合うことで、患者さんの普段と違う違和感から難しい病気も発見できることを学んだと同時に、学生の身分で医療介入までしてよいものか、その難しさを、この時身をもって知ったという。

今も追い続ける、40年前の疑問

 離島医療サークルで1人1人の住民と向き合った経験も重なって、北島先生は「臨床現場で発生した疑問を研究する」ことにこだわっている。この考えの奥には、恩師である鹿児島大学医学部第3内科 井形昭弘教授(当時)の「1人1人の患者さんを大切にして症例報告にまとめることを大切にしなさい」という言葉がある。

 第3内科は今でいう脳神経内科だが、大学神経内科には多くの指定難病の患者が集う。患者は少ないが必要性が高い指定難病では、数少ない1例1例のデータが集まることが、病気全体の解明に大きくつながる。鹿児島大学第3内科はHTLV-1関連脊椎症の発見で有名だ。

 その教えを受けた北島先生は「1人1人の患者さんを大切にする」臨床医として、多くの時間をベッドサイドで過ごし、21時に臨床業務が終わってそこから夜中まで研究をする日々を過ごした。出張中でも、夜、大学に戻って研究するという毎日だったという。このような生活では大学院に行く時間はなかったが、症例報告にまとめ続け、症例から発展させた研究で医学博士を取得した。このような生活もとても楽しかった」と、北島先生は誇らしげに語る。

 大学の組織運営が中心となった今でも、変わらずノックアウトマウスを用いた基礎研究を続けている。

 そして、「患者さんから出た疑問へ諦めずに向き合う」という想いは今も根底にあり、専門である臨床検査・神経内科の領域に留まらない研究を続けている。

 「生涯をかけてこの関連性を解明したい」と今も研究に取り組んでいるのは、神経内科の疾患…ではなく、むしろ神経内科と関係が薄い「くる病」だ。

 若手医師時代のある時、くる病患者に後縦靱帯骨化症(OPLL)が合併して四肢神経障害を呈する症例を3件重なって受けもった。普通では考えられない話だ。

 「専門家に聞いても骨の石灰化障害の疾患に異所性骨化が生じるなんでそんな馬鹿な話があるかと追い返されます。でも、その患者さんが実際に目の前にいるんです。」

 だからこそ、医師になって1番最初に受け持ったくる病の患者さんに関する疑問を、40年経ち、医学部長、副学長となった今でも研究テーマとして続け、最近、低リン血症性クル病の病因であるFGF23がOPLL発症に関与することを明らかにした。

 「基礎研究と臨床研究を皆さん分ける傾向にありますが、私は連続しているものだと思うのです。」

 まずは目の前の患者さんと真摯に向き合う。その中で受け持った患者さんに対して疑問が湧き、調べてみると解明されてない部分が見えてくる。そうなればその先をなんとか解明したいと考える。その研究手段が、基礎研究であり、臨床研究なのである。北島先生のキャリアの礎となっている考え方に、少し迫れたのではないだろうか。

拠点も仕事内容も変化の大きかった半生
――苦労の乗り越え方は

 高知出身で、鹿児島、大分、東京、アメリカ、富山へと多くの場所に移り住んだ北島先生。扱う分野も、神経内科から検査医学、そして教務委員長として学生教育担当、保健管理センター長として学生のカウンセリング環境の整備、大学病院副院長として卒後研修センター長、医学部長としての組織運営と多くの異なる仕事を担当してきた。そして最も苦労したのは、移動に伴う環境変化だったという。

 新しい職場では、時にローカル規律が存在し、自分が想像した環境と異なっていたりすると、これまでできていたことができなくなることもある。だが、環境に適応せず、我流を貫けば嫌われてしまい、ますます自分のしたいことができなくなりかねない。

 我慢すべきか、飛び出すべきか。そんな時、北島先生は自ら意志を固めることで気持ちを整理してきた。

 「人に言われた行動なら他人に責任転嫁してしまいます。だからこそ、自分の責任で行動することが大切です。」

 その覚悟をもって、自分の突き詰めるテーマはもちつつ、さまざまな環境でチャレンジを続けてきた結果、今の北島先生があるのだろう。

若手医師に伝えたい、
4つのkeyword

 医学部長として学校教育にも力を入れてきた北島先生は、若手医師へのメッセージとして4つのkeywordを与えてくれた。

 まず、医学部入学時にあったであろう最初のパッションを燃やし続けること。
 次に、入学後にだんだん停滞するパッションを維持するためにビジョンを持つこと。
 そして、そのビジョンを叶えるために、迷わずアクションすること。
 最後に、この3つの過程を若いうちに達成するため、コミュニケーションを大切にして、色々な人の助けをもらうこと。

 この4つのkeywordを大切にすれば成長が加速すると、北島先生は話す。

 「何かに一生懸命な人は、目が輝いているものです」

 自分の本当にしたいことを早く見つけて、それに一生懸命な学生は目がキラキラしているという。北島先生は、そんな学生が理想であり、教育者としてぜひ応援したいという。

 その中で、「自分のしたいこと」はどんなことでもよくて、いずれ医療の道に還元される。
 そう嬉しそうに話してくださった。

 目の前の患者・課題と向き合いながら、副学長となった今もその課題に一生懸命向き合う北島先生。この生き様は、多くの若者の道標となると感じた。

取材・文:自治医科大学医学部6年 宮井 秀彬

本記事は、「m3.comの新コンテンツ、医療従事者の経験・スキルをシェアするメンバーズメディア」にて連載の記事を転載しております。 医療職の方は、こちらからも是非ご覧ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?