第12回⑤ 山田 洋太先生 「島の医療を背負う」責任感で起業した医師のキャリア変遷
山田洋太先生は現在、株式会社iCAREのCEOとして、「働くひとの健康」をテーマに組織の健康に関するデータを管理するサービスを提供している。今回は山田先生が現在の働き方に至るまでにどのような道のりをたどってきたか、紐解いていく。
治療最優先の急性期病院で“違和感”
山田先生は、研修で進んだ沖縄県の急性期病院、そして久米島での離島医療の経験が、その後の進路を決定するうえでとても印象深かったと語る。
研修先の病院は救急車がひっきりなしに来る、急性期治療を多く担う病院だった。しかし山田先生は患者さんと接する中で「ある光景」を目にする。
「救急外来で診て、退院したはずの患者さんが、何度もまた救急外来に運ばれてくるんです。」
他にも、がんで入院治療をずっと続けていた患者さんが亡くなった時、家族が「こんなはずじゃなかった」と泣きながら話す光景も目の当たりにした。
「なぜこうした状況になるのかを考えた時、急性期病院では『治療』が最優先事項になっていることに気づきました。救命が最優先であるが、『人が死ぬ場所』でそれぞれの人の『価値観』がないがしろにされていたんです。」
こうした現状に違和感を持った山田先生は、離島医療の経験を通じて「違和感」の正体に気づく。
「久米島で、高血圧なのに全然薬を飲まない患者さんがいました。先輩医師に『その患者さんの家に行ってみろ』とアドバイスされたので、家を訪問したんです。その人は、掘っ立て小屋に段ボールを敷いて寝ていた、ほぼホームレスの方でした。」
とても通院して高血圧の薬物治療ができるような状況ではなかったのだ。このことから「すべては日常の中で起きている出来事だったのに、自分はその背景を知らずに病院で治療を施そうとしていた」ことに気づいたという。
「自分が島の医療を背負っている」
責任感がビジネスへの方向転換に
「臨床医は天職だと思う。臨床が大好き」と話す山田先生。しかしあるきっかけから、経営やビジネスに興味を持ち始め、方向転換を決意する。
そのきっかけとは、当時勤務していた久米島病院が経営破綻しかけていることだった。
久米島病院を含む多くの公立病院は、自治体が赤字補填をしてぎりぎりで存続させているのが現状だった。地域医療をもっとサステナブルなものにしたい。そのためには経営の地盤を固めるのが大事と考え、MBAの本を読み、知識を得ようとした。
しかし、自分でやってもどうもうまくいかない。
そこで慶應義塾大学ビジネス・スクールへの進学を決意した。実際にMBAでは経営を一から学ぶことができ、かけがえのない仲間とも出会うことができたという。
臨床が好きだったのにも関わらず、なぜいったん臨床を中断し、ビジネス・スクールに進むという大きな決断ができたのか。
「すべては『自分ごと化』してきたからですね。久米島の病院がつぶれそうなときも、『自分が久米島の医療を背負っている』という責任感がありました。」
環境や人のせいにして文句を言いたくない、自分ができることはやりたい、そんな思いが山田先生を駆り立てる原動力となっていたのだった。
“治療”する臨床医から、
“予防”にかかわる起業家へ
山田先生が、働く人の健康に興味を持ったきっかけが、ビジネス・スクールの2年目から勤務していた総合内科での診療経験だった。受診する患者の中で、仕事に関連した抑うつ症状や適応障害に悩む患者が多いことに驚いたという。
「なぜこんなに仕事に対しての不調を抱える人が多いんだろう」と思う中で、患者さんの精神的不調も内科医としてトータルで診られるようになりたいと考えるようになっていった。
久米島において、病院経営が「治療」にフォーカスされている現状に疑問を持ち、働く人の不調を診ていく中でより日常に即した医療が重要であると痛感していった山田先生。次第に内科医としての「治療」という観点から、「予防」の重要性を感じ、自身で社会的な課題をしたいと考えるようになっていく。
「予防をプロダクトで提供することに価値がある」と、株式会社iCAREを起業し、働く人の健康管理に携わることを決意した。
ビジネス・スクールの同期と創業したiCAREだったが、最初はプロダクト、サービスを作っても売れない時期が続いた。山田先生自身も、当時の生活は「赤字病院の再建」、「会社経営」、「心療内科の外来」を両立した“三足のわらじ“の生活であり、多忙を極めていた。
当時のうまくいかなかった理由を、「1つのことにフォーカスしていなかったからだと思います。社会的に大きな課題を成し遂げたい場合は、最初は1つのことにフォーカスしたほうがいい。中途半端な気持ちでやるのは自分でも納得できなかった。」と振り返る。
実際に、再建した病院の黒字化を見届けたころ、ようやくiCAREの事業も軌道に乗り始めた。
軌道に乗るまでに諦めそうになることはなかったのか。
「何回やってもうまくいかない時期は、何度も諦めそうになりました。もうやめよう、と本気で思ったこともあります。その時に救いとなったのがビジネス・スクールで出会った同期でした。相談するとすぐに会社に参画してくれて、サービスを抜本的に見直すきっかけをくれました。」
そこから資金調達に成功し、無事にサービスを続けることができたそうだ。
医療のプロとして「とにかく勉強しろ」
最後に、若手医師・医学生に伝えたいメッセージについてうかがった。
「とにかく『勉強しろ』と伝えたいです。医師というのは崇高な仕事で、片手間でできるようなことではない。プロとしての責任を全うするには勉強しかありません。」
山田先生自身、学生時代は「医師になることが怖かった」と話す。その怖さを払拭するために、論文を大量に読んだり、学生同士で勉強を教えあうコミュニティを立ち上げたりと、積極的に活動していた。
卒業後に勤務した急性期病院や離島では、「自分の知識や治療がそのまま自分に返ってくる、自分の治療がうまくいったかどうかがすぐにわかる」環境に身を置き、医師の判断がいかに患者さんの人生に影響しているかを実感したという。
「ほかのことをやっちゃいけないわけではない。プログラミングやビジネスのことも学生時代に勉強したいなら勉強すればいい。でも、これからプロフェッショナルとしてやっていく中で、医学を勉強しないという選択肢はないのです。」
常に置かれた状況を『自分ごと化』して考えることで、キャリアを切り拓いてきた山田先生。
当日は先生のキャリア観などについて、さらに掘り下げたお話を聞くことができそうだ。
取材・文:横浜市立大学医学部4年 印南麻央
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