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10月27日放送『有吉の壁』“おもしろ童話選手権”かもめんたる&蛙亭コント「魔女」の考察

かれこれ1週間頭から離れない、たった数分のコントに何故こんなにも悩まされるのか、う大先生には大変畏れ多いながらも言語化を試みてみようと思う。

TVerではまだ観られるようなので是非観ていただきたい。
https://tver.jp/feature/f0087322

ネタの大筋

子供(かもめんたる槇尾さんと蛙亭岩倉さん)にいびられる魔女(蛙亭中野さん)は「魔法で毒蛙にするぞ〜」と言って子供を追い返すが、屋敷から出てきた男(かもめんたるう大さん)に慰められ屋敷に帰っていく。

ツッコミ不在のキャラクターコント、とジャンル分けすれば良いのだろうか。中野さんの醜い魔女キャラクターに掴まれ、登場以降気持ち悪さが増していく男にゾクゾクとする作品。

当人は至って真剣だが側から見ると面白いパターンのコント、といえばこの番組でもチョコプラさんやシソンヌさんも得意とするコントだろうか。しかし中野さんの持つ天性の純朴さを、岩倉さんとは違った角度で魅せてくれるう大先生の描写が、正に魔法のように作用した傑作。

有吉さんの⭕️が出た後ジングルが終わるまで、2人の愛情と共に暖かい気持ちになれる、素敵なお話でした。


⋯などと思っているうちが幸せでした。

2つの疑惑

この日の放送回は傑作ネタだらけで、安村さんのムエタイの奴とかめちゃめちゃ笑いました。しかし、明くる日もそのまた明くる日も、この魔女のネタが頭から離れません。それも、観終わった時の爽やかな気持ちはすっかり忘れられて、このネタの深淵に対する畏怖とそれを覗かんとする好奇心との間で揺さぶられ続けています。

僕はこのネタの深淵へと繋がる2つの疑問点を抱いたのです。

①「腹が減った。鍋で何か煮てくれ。」というセリフの蛇足感

男の「さあうちへ帰ろう。腹が減った。鍋で何か煮てくれ。」というセリフでこのコントは幕を閉じる。

「さあうちへ帰ろう。」だけで良いのではないか。ここまでで男の狂気と2人の愛は充分に伝わっている。

②この男は何故もっと早く助けに来ないのか

う大さんがいつも『壁』で見せるキャラクターコントはもっと狂気に満ちているし、時間もたっぷり使う。この日も他に2人乗り自転車を漕いで来る狂気の男を演じていた。

それに比して本作は中野さんという軸があるからなのか若干控えめである。もっと早めに出て狂気を振り回してくれればよかったのではないか。それとも時間が足りなくて前述のようなセリフを追加したのか?


しかしながら私には

(う大先生が理由なくそうするはずが無い。何か意図があるに違いない。)

という確信がありました。この疑問を自分なりに解釈をしようとした結果、1週間もこのネタに苛まれ続けてしまったのです。

①−1 「鍋」によるディティールアップ

「魔女」といえば「鍋」である。キリストは祈りで病を治癒したのに対し、魔女は大鍋を用いて薬を作った。キリスト教の強権的指導のために薬学に精通した者を処刑した事を俗に魔女狩りと呼ばれている。

『魔女の宅急便』でキキの母親が大鍋で何かを煎じているし、『ハリー・ポッター』のマグゴナガル先生の机にも鍋が置いてある。『白雪姫』の毒りんごも大鍋で生成するだろう。

魔女のアイテムといえば他に”魔法の杖“”箒“”魔導書“などが想起されるが、これらはかなりファンタジックなのに対し、“鍋”は史実的背景も持つアイテムである。そのため、たった一言”鍋“が登場したことで舞台設定の解像度が格段に上がるのだ。このコントは衣装やロケーションから中世ヨーロッパ風ファンタジーに見せ掛けられていたが、もしかすると中世ヨーロッパそのものを舞台にしている可能性が投げかけられる。


⋯と、正直ここまではテレビで観た瞬間に感じた所。「蛇足でも”鍋“って入れる所!さっすがう大先生やでぇ!」などと浅い感動をしていた。しかしながら、う大先生先生が蛇足などするはずがないのだ。このセリフが大オチになる確固たる必然性があるに違いない。

①–2「(魔女の大)鍋で何か(食べ物を)煮てくれ。」

最後のセリフはこの様に理解することができる。

魔女を愛する男が、魔女に対して、魔女の商売道具で飯を作れ、と?

この違和感にこそこのネタの真髄があるのだ。にも関わらず私は「蛇足」などと言ってあわよくば臭いものに蓋をせんとしたのだ。

鍋だけに。

②–1 急ぎもせず飄々と現れる男

魔女が石を投げられ、子供を脅かし、退散した後に現れる男。

何故もっと早く来ないのか。何故急いだ素振りもないのか。(絶対チョコプラ長田さんなら肩を揺らし小走りして、大股開きながら「どうした!!!」って来る。)

この男は「玄関先で愛する女が石を投げられている」事(が常習化している事)に対して危機感を抱いていないからだ。

そして自身を“醜い”と評する魔女を、男は“美しい女性”だと慰める。

つまるところ、

・いじめの様子を伺い、ベストなタイミングで慰めに来た。

・いつものことなので気にしてないが、いつも通りに慰めている。

こんな所なのだろう。慰めながらも狂気的になる様からも、その計画性を感じざるを得ない。小走りの一つでもしてくれれば⋯

②–2 中野さんの演技

ところで男が来る前後の魔女はどうか。

子供たちに言い返すシーンは正に恐ろしい魔女といったところ。毒蛙にしてしまうと言っているが、もしかしたらそんな魔法は使えないのかもしれない。

子供たちが帰った直後悲しい表情を見せるが、男に対して“強がって”みせる。その後男の腕に抱かれながらまた悲しい表情のまま家に帰っていく。

子供たちに強がるのはわかる。何故、男に対しても強がっているのか。

そして何故男に慰められる間、愛に溺れる演技にならないのか。この話は「2人にしかわからない愛のカタチ」でも無ければ「男女逆Ver.美女と野獣」でもない。魔女はずっと悲しみを抱えたままである。

それは男が提示する“美しい女性”という像に納得できないからではないか。

②–3 子供→魔女→男の伝言ゲーム

子供(槙尾さん)は魔女に「醜い魔女〜!」と言う。

魔女は男に「私は醜いから⋯」と言う。

それに対して男は「君は美しい女性だよ。」と慰める。(ここからの中野さんがすごい。この慰みをうまく受け取れない演技がうますぎる。)

魔女は自分の事を“醜い”とは評しているが、“醜い魔女”とは言っていない。それに対する男の“美しい女性”とは“醜い”を否定しながら、”魔女“である事も否定しているのだ。

続く魔女のセリフ「だけどみんなからは恐れられています⋯」が否定したいのは“美しい”ではなく、”女性“(=魔女の否定)なのだとしたら。

彼女は魔女としての自分にアイデンティティを持ちながら、醜く扱われる事に自己肯定感を失っているのではないか。

彼女が本当になりたい自分とはカッコいい魔女なのではないか。みんなから“畏れ“られる魔女になりたいのではないか。

「古典的ジェンダーロール」

女は家を守れ。男は外で仕事をしろ。女は愛してくれる男に嫁げ。美味い飯を作れ。四六時中美しくあれ。それが女にとっての幸せだ!

古い価値観ではありますが、根強い価値観でもあると思います。そしてこの価値観がこのコントの根底にあります。

〜醜い魔女は美しいと慰められ、自分を愛する男に抱かれ、飯を作れと言われました。めでたしめでたし。〜

令和最新の価値観からすればちゃんちゃらおかしいかもしれない。しかしこのお話は『おもしろ童話選手権』。時代に合わせれば、魔女の方が時代に合わない。

①–2‘ 「腹が減った。鍋で何か煮てくれ。」の真意

このセリフを言い換えれば

「俺の飯を作るために仕事を辞めてくれ」

と同義である。男は登場以降、魔女に対し旧時代的女性を求めている。最近Twitterでよく見る離婚漫画みたい。「『さあ帰ろう』?ついさっきこの家を守ったのは誰だと思ってるのよキー!!」って言ってる離婚直前漫画。

バリキャリなんて言葉もない時代

魔女に提示された未来は2つのみ。醜い魔女になるか、美しい女性になるか。

“カッコいい魔女”という言葉がないのだ。彼女が抱く希望を的確に形容する言葉は、まだあの時代には誕生していない。

入れ子構造

そしてこのコントを的確に形容する言葉もまだ誕生していない。

キャラクターコント、と軽はずみに定義してはいけない。形容する言葉に枠を決められては、本当の姿が見えなくかもしれないから。



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