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「やりがい」を飼い慣らすにはどうすればよいか。

「やりがい」とは何なのだろうか。
人はやりがいを追い求め、やりがいを感じ、時にはやりがいに搾取される。転職活動中ということもあって、「やりがい」の正体について、自分なりに考えてみたので、ここに書き記す。

まず、やりがいを自分の言葉で翻訳してみると、他人から必要とされている実感だと思う。スキルアップとか、裁量権が大きさとか、世間一般にやりがいとみなされている他の言葉もあるけれど、それは全部「他人から必要とされている実感」に収束していくんだと思う。誰しも、誰かしらの役に立ちたいのだ。ならなんで、「他人から必要にされている実感」が欲しいのだろうか。生きていくためなら、そんなものは必要なくて、お金さえもらえればそれでいいはずだ。
答えは人間の習性にあると思う。

太古の昔、ホモサピエンスが群れを形成して暮らしていたころ、社会では「殺し」が今よりもっと一般的だった。なんと全体の一割ほどが同じ群れのメンバー同士の殺人だったらしい(所説あり)。そういった状況の中では、他人に恨まれないように進化する進化圧がかかる。利己的に食べ物や雌を独占する個体よりも、利他的にふるまえる個体の方が生き残る確率がほんの少し高いのだ。言い換えれば、「他人から必要とされている実感」が得たいという欲求が備わっている個体が、群れのなかで利益を売ることができた。
つまり、セックスがしたい欲求が強い個体が子孫を残しやすいのと、同じように、他人から必要とされたい欲求がある個体も、子孫を残しやすかったといえる。

僕は、やりがいとは、性欲とか食欲とかの人間の基本的な欲求とさほど変わらない存在だと思っている。女を抱きたいとか、肉が食べたいとか、あさましいとさえ感じてしまう欲望となんら変わらない。

メールのやり取りをして、複雑なプログラムを書いている会社員だとしても、草原でマンモスを追いかけていたころの人類と遺伝子はなんら変わっていない。そのころに生物として獲得した能力と生存本能を使って生きている。ときには生存本能に苦しめられるときもあるだろう。

やりがいもそうだ。他人に役に立ちたい欲求はスキルを高めるモチベーションにつながる反面、やりがいという感情に搾取される。
「生きていくためのお金なんかより、やりがいが大事だ」と感じて、給料が低い会社に転職した人もいるらしい。もともと「やりがい」とは、人間がジャングルで生きていたころ、他人に自己の有用性を示して、身を守るために発展させてきた重要な感情だ。でも、それによって本当に生きていくために重要なお金を犠牲にした人もいるらしい。本末転倒だよね。

強姦を働いて逮捕された性犯罪者のように、食欲に負けて食べ過ぎてしまうデブのように、欲求が合理的な判断を上回ったのだ。

でも、実際に僕も仕事で一番大事なことは?ときかれると「やりがい」と答える。なぜなら、自分も「やりがい」(=他人から必要とされている実感)がないと生きていけないからだ。

ただ先述したよに、「やりがい」に操られすぎると失敗することも多いと思う。芸能人が不倫をして、芸能人生が崩壊するのと同じように、やりがいも飼い慣らさないといけない。他人から必要とされている実感を得たいがために、嘘を発信してしまうかもしれないし、大きなストレスになってしまうかもしれない。

ならどうやって、「他人から必要とされたい欲求」をうまく操縦する能力を得られるのだろうか。
その質問に、現在の僕では答えられないが、「やりがい」の正体と向き合ってみることは、とても重要なことだ。

とりあえず、「やりがい」と意図的に我慢してみることから始めたいと思っている。


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