美しかった時期がない
醜形恐怖症、みたいなの俺はまぁまぁ馬鹿にしてたんよ。明らかに醜くも何ともないツラを抱えておきながら、一生外部の“顔整い”とやらに嫉妬をぶつけてるヒトっているやん。あんな感じの。
でもふと冷静に考えてみるとおれの中にもあまり馬鹿にできない要素が入ってるような気がする。おれは生まれてこのかた美しかった時期がほぼない。赤ん坊は存在自体が美しいから除外。幼稚園の頃に人生に3回あるらしいモテ期を使い果たしたので、幼稚園の頃は自己肯定感高かった。小学生以降はデブと(これはおれのせい)アトピー性皮膚炎(これはもうどうしようもない)のダブルパンチで、なんというか身体に秘められたポテンシャルを全く活かしてあげられてない気がするし、そこになんか恥ずかしさを覚える。
もちろんこれは醜形恐怖症のひとたちの抱える病理とはかなり離れたところにある感覚だとは思う。彼らの抱える強迫観念というか、辛さみたいなものはやはり考えが及ばない。ただ、“身の置き場がない”といった気持ちだけはほんの少しだけわかるような気がするんだよな。ちょっと世の中は美しさに溢れ過ぎている。おれを世界が蔑んでるような気がする。もちろん気のせいだ。いしころのことなんて世界は気にしてない。
さてそんな気持ちに折り合いをつけるためにやれることは多分いろいろあるんだけど、なんか“形而上の概念”みたいなものを敵にしてしまうと一生勝てない戦いをするしかなくなると思うんだよね。たとえばあのちゃんが好きで、あのちゃんみたいになりたい!って思ったとする。この“あのちゃんみたい”に彼女の今抱えてる人気や名声が代入されてたとしたら非常にまずい。それを達成するためにはあのちゃんになるしかないので。あくまで敵や目標は物理ベースでないと風車に挑むドンキホーテをずっとやる羽目になる。
もう一個は、これはよく言われてることだけど成長そのものを自己褒めしてあげないといけないんだろうな。マドンソクを100、おれを1とした時に100に“なる”のはさっきの話と同じで出来ない訳で。でも等直線上の中間点は何処かに必ず取れる訳で、一喜一憂するのであれば成果ではなくボラティリティだと思うんだよ。0か100か、この呪いを自分にかけ続けると何一つ満足できない人になってしまって、もしかしたらこの中から綺羅星が生まれるかもだけど、それは屍の上に成り立った現象だと思うんだよな。そしてコンプレックスから生まれた綺羅星の予後は、たぶんあんま良くない。
とりとめが無くなってきた。とにかく何が言いたいかというと自分を認めてやらないと主観的幸せがどんどんこぼれちゃうなって、昨日仕事しながら思った訳です。最近少し病んでるから自分向けに。
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