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人と映画が重なる時

 俺は基本的に“役者と役柄は分けて考えた方がいいと思う”派の人間で、俳優にせよ声優にせよ、お出しされたモノだけで良し悪しを判断すればいいと思ってる。まあ当たり前だよね。努力だとか、容姿だとか、そんなものをカウントし始めたらどうなっちゃうんだよってなるし。

 ただ、たまに役柄と役者が分かち難く結びついて離れない作品がある。近年ではやっぱり『トップガン・マーヴェリック』だろう。若き青年は長きにわたるアクション俳優としてのキャリアを経て本物の男になった。その人生の地層を、現実のトムとマーヴェリックの間に重ねない人は居ない。なればこそ僕らは、砕け散った滑走路から、今飛び立たんとする可変翼に涙する訳だ。伝説の健在に涙するのだ。


『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』もまた、多分そんな作品の一つだ。ただし、僕らはきっと“伝説の男の不在”に涙している。

 俺はマーベルオタクの門外漢だからトンチンカンなことを言ってしまうかもしれない。ローズ(ウォーマシン)、サム(ファルコン)あるいはマイルズ(スパイダーマン)、多民族国家アメリカの中で“ヒーロー”になった者達と、アフリカの秘められた強国ワカンダを率いる、悩める若き国王ティ・チャラはその意味が大きく異なる。彼こそ初めて銀幕の世界で、“アフリカのスーパーヒーロー”を世界に叩き付けた男だから、彼等にとってのはじめての“俺たちのヒーロー”だから。

 コンテンツ大国日本で過ごしてると忘れがちだが、それが現実であれ架空であれ“俺たちのヒーロー”のもたらす誇りはとても大きい。『スパイダーマン ノーウェイホーム』でエレクトロが語った“スパイダーマンが黒人であって欲しかった願望”などはまさにそれにあたるんじゃないか。

 ともあれ、そんな偉大過ぎる男の、早すぎる不在である。今作はまさに3時間をかけた“チャドウィック・ボーズマンの葬式”であり、その役割を十二分に果たしたと思う。巨大すぎる兄の死に最も深く傷ついているにも関わらず、生来の合理性と科学的思考もあってその痛みを忘れることができないシュリ。彼女が立ち向かう困難と、静かに流す涙を見て、我々もまた偉大な男にさよならをする。


 シンプルな映画としての話をすると、物凄く特徴的なBGMの使い方が印象に残る作品だった。純白の衣装が映える葬儀のダンス。美しい人々だな、と思った。

 あと、新しいスーツに刻まれた金と銀の意匠めちゃくちゃテンション上がった。直前のハーブの見せた夢もそうだけど、あの儀式は確かに、会うべき人に会うべきタイミングでシュリを導いたんだな、ということが映画の最後に理解できたように思う。

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