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ハリボテの希死念慮について

 今ランニングマシンをウォーキングしながらこれを書いている。いつもの時期がやってきてしまったから。“死にたい期”である。これは脳みその生理のようなものなのでなんというかいつもはただ頭を下げてやり過ごしているのだが今回はちょっと長い。思い当たることはまあ仕事の事だよね。

 今の仕事始めてからもう何年だ?そこそこの時間がたった。まあずっと役立たずだよね。その上、この仕事をしていく中での「こうなっていきたい」みたいな展望も持てないまま仕事にこびりついているのがなんだか酷く申し訳なくなってきた。身の置き場がない。

 ブラックとかそういうのを感じたことはそんなにない。ただ、シャカリキになって頑張れない自分自身に嫌気がさすし、そういう動機を持てない事も嫌で。更に言うと、世の中の社会人諸氏というやつはそういう“夢のために頑張る”みたいな大学生あたりで積極的に語るべき命題をとっくに抜け出し、日々の糧のため、子供の、あるいは妻の、ことによっては働けなくなった父母の……そういった外部のために頑張ってたりするわけ。大学を中退したからって今更大学生に逆戻りしていいわけじゃないんだぞ、俺。

 閑話休題。話を戻すとだ。俺は結構いろんなモノ、コトをそれなりに楽しんで生きてられていることは確かだ。でもそれは言ってみれば漫画やゲーム、小説といった“他者の生み出した物語”の話で。いやがおうにも時間を費やさねばならない、“日々の糧を得る”ということを自分の物語として楽しんでいけないのってあんまりにも悲しいじゃないかって思うですよ。別に転職をしようとかそういう話じゃなくてさ、もっとまっすぐに仕事に向かい合いたいなと。そして向き合い方がよくわからないでいる。

 これは結局ボラティリティの話なのかな?今、無力感を感じているという事実自体が日々の中に折り畳まれていたハリボテの希死念慮を引き摺り出して、空気を入れているのだ。小さな一歩から始めて、カラカラと風車が回って、風を感じればいつのまにか萎んでくれるものなのかな。

 明日も仕事。少し整理できて良かったなって思う。



追記:答えは唐突に

恥ずかしい

 恥そのものの気付きがあったので追記。要するに自分は何をおいてもまず自分自身を推したくて、けれども自分という箱の中で推せない部分があまりにも多いであろう状態が苦しいんじゃないかってこと。夢というふんわりした要素の話を考える前に、まずは自分という箱を階層ごとに分解した上で採点して、その上で得点を上げていくのがまず最初にできることかも。

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