恋が光なら、愛もまた(ひたすら北代さんについて語る回)

・列伝、好きですか??
俺はめっちゃ好きです。おはようございます。
 歴史って物語だと思うし、物語ってキャラクターだと思うんですよ。人物を描く事で、彼や彼女を愛することで平凡なストーリーすら血の通ったものになる。行く末の幸せを祈る。そんなところが俺は大好きです。ここまで言っといてなんだけど俺は史記とかビタイチ読んだことないです。

 でも今日の話は紀伝体形式のそれといいますか。『恋は光』という漫画の中で北代さんについてばっかり喋る、そんな覚書です。例によって一人の読者を明確に想定したテキストになるんでネタバレとか一切気にしません。ではくっちゃべっていきましょう。思い入れを語ることになるので少し暑苦しく、気持ち悪くなると思います

・北代さん
 著者の秋★枝先生の描いてきた漫画の女子で一番いい女です(断言)
一応話のスジを列挙すると大学を舞台にした恋愛もので、主人公の西条くんが、自身の“恋をしてる女の子が対象の男の子に対して光って見える”という体質について、昔馴染みの同級生である北代さんに相談するところから物語が始まります。その過程で素敵な女子がいっぱい出てくるんですけど北代さんと比べると全てが有象無象なのであまり紙幅を割きません。嘘です。普通に全員可愛いです。でも重要度は今回は北代さんなんです。

「ああ、そうか。センセの中で、私は無い存在なんだなあ」
 切ないわけですよ。この漫画は恋愛漫画なので北代さんは当然西条を懸想してます。“自分は光っているのか、誰かがあなたに光ってはいないか”そんな疑問を当然のようにぶつけるのだけれど、帰ってくる答えはただ皆無とだけ。ならば自分のこの気持ちはなんなのか。西条の見ている“光”とは恋なんかじゃないんじゃないか。そうあってくれたら安心だ、そうあってくれないと困る。シリーズの終盤あたりまで続く彼女の葛藤がここから始まります。

「きっと北代さんは本当に、西条さんが幸せならそれでいいんだ」
 
苦しいわけですよ。本当は好きな相手の言ってる事を疑いたくはねえけど、自分の気持ちだって解んなくなって板挟みになっている北代さんを見ている俺が。でも彼女は表面上、そんなことにそこまで頓着してるようには見えない。優先順位が違うんですよ、優先順位が。彼女は西条の一番の幸いを求めて動いている。だから想い人の恋愛相談に乗るし、彼女なりの精いっぱいの我儘を混ぜつつも西条の能力についてリサーチしていったりもする。

・央ちゃんとはいったいどんな存在か
 ところでこの物語、中盤で突如高校百合モノパートが挿入されます。
何でだよマジで。この右の子なんすけど。彼女の説明をしておくと彼女も恋をしている女の子がわかるんですよ。西条の力をリサーチするにあたってネットで知り合ったJKです。ロクデナシっぽい先輩女子に惚れてる変な子です。

 俺最初ね、この子のパートやこの子の絡みもう全く理解できないパートだったんすよ。いいから北代をはよう、はようって虎眼先生みたいに言ってたレベルまである。俺という個人のベクトルはそれほどまでに北代さんに向けられていたってワケ。小松奈々の太ももに対するまなざしよりも強いビームを放っていたのよ。俺のミステイクであった。結論を述べよう。央ちゃんとは北代さんにとってのサンボマスターだ。


・きみのキレイに気づいておくれ
物語の終盤、光の謎について話す為に西条達の大学に央ちゃんが遊びに来る。西条と北代さんは彼女と意見交換をするのだけれど、そこで彼女はどんでもない爆弾をぶん投げるのであった。

ひ、光っとるやないか!!!!!

いや光ってますよ。西条の見ている光と央ちゃんが見ている光は似ているようで違っていて、央ちゃんから見た北代さんは、見間違いようもない恋する乙女。お前の好きは間違いじゃない。キミの綺麗に気付いておくれよ。解ってくれよ、キミのホントを教えてくれ。今しかない

 やっぱりさ、俺達の手を引いてくれんのはサンボマスターなんですよ。思わぬ場所から現れた、背中を押す言葉によって零れ落ちた愛の言葉。俺は彼女の「ちゃんと、好き」を想うたびに、越えてきた夜の不安さを思う。北代さんはいい女で、実に大人びた女だと思う。でもさ、大人びてるってのは別に枯れてる訳でも不感症な訳でもない。彼女の心はきっと砂時計のように刻々と、不安を貯めていったんだと思う。誰も彼女の不安を埋められない。埋められないはずだった。この瞬間までは

「今、この時を逃したならば、きっと私は一生センセを好きだとは言えないだろう」

最後のチャンスは、何処からともなく現れた応援者の力強い腕に押されて巡りくる。彼と彼女のその先には何が待つのか。


・見つめ合う恋、傍らに立つ愛
結論から言ってしまうと北代さんの愛は結実しなかった。何が悲しいって、俺はこの結果に完全に納得させられてしまった事だ。

“愛は、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである”

 サン=テグジュペリの名言なのだけれど、ここから思うにきっと北代さんと西条は同じ方向を見つめることが出来た二人だったんだと思う。北代さんはそもそも序盤の方で「二人でこんな老後を過ごせたら」と心の中で思っている。電車の椅子の、隣同士に座りながら。車窓の外を流れる景色を一緒に眺めながら。

 でも西条が求めていることは愛ではなく恋だったんだ。お互いを見つめて、知らないところを知る未踏領域の開拓者となる事を彼は選んだ。愚かだなんて笑えないよ。未知を求める勇気なんだ。崖から一歩踏み出すような物語に彼は漕ぎ出したんだ。

 これを書くにあたり久々に恋は光本編を再読するにあたり、思い出したのは三秋縋の『君の話』のあるシーンだ。

“彼女の言う通りだった。この二人は、七歳で出会っているべきだった。それより早くても、それより遅くてもいけなかった。それはきっちり七歳でなければならなかったのだ”

 北代さんが西条と恋仲になるにはきっと適切なタイミングがあって、二人はお互いに向き合って、そして段々と同じ景色を眺める関係になれた。顔色を互いに窺うまでもない、繋いだ手からお互いの事を感じられる仲間になれたのだと思う。でも、そんなタイミングは既に彼方へと過ぎ去ってしまった。俺はそんな二人の、納得づくの結論の先にある別れにただ悲しむしかなかった。「恋って二人でしたいよね、やっぱり」ただその一言に俺は頷くしかなかった。なんで俺が失恋したみたいになってんだよ。マジで


・「俺はあなたと付き合いたい。あなたと恋を知りたいし、作りたい」
 
西条は結局東雲ちゃんと付き合うことになった。東雲ちゃんはキラキラ輝いている。西条に向かって。でも、作中の定義に則るならば彼女はいつか“本能の恋”を失い、輝かなくなる日が来る。その日が来た時に彼女が西条に対して“学習の恋”の光を向けている未来を俺は祈る。

 そして俺は願う。再び北代さんが誰かに対して恋の光を灯す日を。そしてその光が、愛の光に変わる日を。ただ幸せを願う。



 いざ書き上げて思ったけど本当に気持ちわりいな。忘れたころに眺めたら多分赤面してしまうよ。俺が昔書いていたギャルゲー日記とか実家に消え去ったんだけど、仮にそれ読んだ時と同じくらいの衝撃がありそうだ。十年単位でやることが変わってねえ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?