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陰陽の谷を越える、或いは何かを愛することについて

 過日、会社の有志でバスケットボールに行った。体育館を時間借りしてのプレイである。最初の八分間でもう俺は粉々になった。息が苦しい、頭が痛い、足はもつれパスにもドリブルにもついていけない。

事前のセルフイメージ
一試合終わった時の現実

 普段からは考えられない量の汗をかいて思ったよりずっと楽しい経験になったのだけれど、本題はここから。

バスケごときで陽キャもねえだろ、と一笑に付すことが出来なかった

 友人からこんな反応がもたらされて少し考えることがあった。俺は陽キャなのか?ということ。

 まず実績としては“陰キャ”寄りのトロフィーを獲得している。童貞、彼女無し、低賃金労働者でオタク。学生のころから積極性に欠け、就活で自慢できる“ガクチカ”とやらも存在しなかった。そもそも大学も中退してるわ。こんな俺が陽キャか?と思う一方で確かに“休日は会社の仲間とバスケ”はちょっと陽っぽい。


蒲田にラーメン食いに行ったらお祭りやってた。
外に出なければこういう体験は得られない。

 じゃあ俺が陽キャになりたいとか、陰キャ的なパーソナリティを脱却したいのかというとそうではなく、恐らく俺は“越境”がしたいんだと思ってる。   普段しているオタク的な性向を持った活動の中にどこか活動的な、陰中の陽なのか陽中の陰なのかは知らないが、とにかく太極図的なバランスを取ろうとしていて、そこを横断することで新しいところに触れてみたい、みたいな思いがある。

両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず

 一方で保守的な自分も居て、たとえば“FF14やろうぜ”って誘われたことは結構あるのに今に至るまで渋り続けている。きっと自分は本質的には内にこもるタイプの貝殻野郎で、それを俯瞰する自分が「そのままじゃいけないし楽しくないよね」というメタ的な事実をもって殻をこじ開けようとしている。こんな風な綱引きの上に“おれ”が成立しているんだと思う。

 この綱引きの成立はある意味では均衡で、ある意味では“どっちつかずさ”でもある。我々は永生の存在ではないわけで、刻々と残り時間は減っていく。何かを探し求めてウロウロする時間……つまり“越境”の時間の増加はそのまま真に愛する何かを求め続ける時間……“深掘り”の時間の減少に通じる。

 おれは最近、何か一つに強い執着を向けることが出来ない自分にちょっとだけ悲しみを覚えたりもする。元が内向的な陰キャで、それでも外交的でなければ何処かで頭打ちになると思って“領土拡大”にいそしもうとしているけれど、根本的に愛すべきものを見出せないでいる。おれは一体なんなんだ………?(多分ここらへんは歳を重ねるにつれて配偶者や子供を愛することで埋まる欠落なのかもしれない)

 長々と書いたが、要するに“身の置き場がねえな”ってコトなのかもしれない。あるいは拡大と深掘り双方で益を求めすぎている、二兎を追う者になっている奴なのかもしれない。この居心地の悪さを何とかすべきなのだけど、今のところ五里霧中だ。


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