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雑記:末路の途中

 最近仕事で落ち込むことが多い。100%俺の能力の無さが原因で、誰かのせいにしたくても自分の顔しか思い浮かばない。

 大学を中退して色んな業種をフラフラして、お情けで今の会社に入ってここまでなんとか生きてきた。今こうして生きてられるのは実家が太かった事と、人の縁には恵まれてきた事による。

 この年齢ともなると周囲のまともな人間は特定方面のスキルツリーをコツコツ育て上げ、しっかりとした足取りで未来に向かってるが俺はもちろんそうではない。整理整頓のなされていない乱雑な経験が転がる中、空っぽの自分だけがそこにいる。

 だから今の辛さはそういう実の無さと向き合ってることによるものなんだと、いいことなのだと納得はしている。分かってはいるのだが、どうしたって自分の行末というか、先を想像しないわけにもいかない。



暗くなったんでこの前見た『ガンズアキンボ』の話をします。


 普通に“ポスターが一番面白いタイプの絶妙なクソ映画”でした。
普段あんまりクソ映画のことを腐すの良くないと思ってるんでやらないんですけど、これに関しては結構学びがあったのでメモっておこうと思います。

 本作はデスゲーム巻き込まれモノ映画なんすよ。マジでCMとポスターはちゃんと面白そうです。ビジュアル的にめちゃくちゃ笑えるシーンあるしね。
ただ、(少なくとも俺が期待する)B級映画って不条理系スプラッタホラーでもない限り、なんというか“悩んでる時間”は最小限にしないといけないんだな。一方でこの映画、主人公が困惑の中にいる時間がかなり長い。他にも嫌な要素(何の魅力もないサブキャラ、薄っぺらいラスボス)もあるけど、まず第一にヤバいのは主人公の困惑による間延び感なんだな。



 例えば俺が大好きなロック様のB級映画『スカイスクレイパー』なんかは家族のために人間ゴリラが燃え盛る塔を攻略する、みたいな主題が爆速で提示されるんですよね。観客はこの映画を誤解する、あるいはどんな映画なの?と悩む余地は全くない。



 あるいは近年B級界でもかなり傑出した出来だと思ってる『ブレットトレイン』なんかは系統としては巻き込まれ系の映画なんですよ。ただ、新幹線という閉鎖空間の中に大量のサブキャラの情報を整理しながら流し込んで、変な空白が生まれないように細心の注意を払ってる。そういや、主人公が困惑し続ける系のサスペンス/スプラッタホラーも結構館モノというか、限定空間で繰り広げられるやつ多いっすよね。キャラクターの困惑・指向性のなさと開放的な空間はイマイチ相性が悪いのだなと。

 あるいはドラマやアニメだったらどうだろう?ヒキを作る必要はあるが、主人公が困惑の渦中に居る回を“溜め”の回として作ることはできると思う(最近は嫌われてる作りらしいけど)。ただ映画というのは、そういう意味では“長いようで短い”娯楽なんだなと思わされる。整理された起承転結で観客を上手にレールに乗せる必要がある。

 翻ってガンズアキンボがそういう映画だったかというと、やはり自分はそうとは思えなかったんすよね。

死体役のダニエル


死に体役のダニエル

 ただ、色んな映画に体当たりで出ているダニエル・ラドクリフへの好感度は引き続き上がってしまいました。スイスアーミーマンとジャングルはおすすめなので見てください。


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