ガチ恋勢の残響
“チキン冷めちゃった”
一文字に積載可能な哀愁の飽和値を超えた、北風の吹くがごときセンテンス。クリスマスの配信をすっぽかされ、PCの前で徐々に冷めていったのは何もチキンばかりではあるまい。僕は、ガチ恋勢の脊髄から絞り出されたような言葉のかけらが好きだ。
僕の中のガチ恋勢の偶像、ひいては最初のガチ恋勢は誰なのかということを思い巡らせた時、それは大学時代の数少ない友人、ただ一人名前を覚えている友人がそれに該当する。彼は、坂本真綾のガチ恋勢だった。奇しくも本日、新しい命を授かったとの吉報が駆け巡り、僕はそんな彼のことを思い出した。全てを忘却しないうちに書き留めておきたい。
彼とは、とある国立大学で出会った。彼自身は大変に聡明でありながらも、前期の東京大学の入試直前に体調を崩し、息も絶え絶えに後期試験を受けて大学に入学した。「ここの入試問題は簡単だったね」彼はそう僕に言った。僕もこの大学を後期で受けた人間だったが、仮に隣にいる人間が前期入試組だったらどうしたんだろう。僕が言えた話ではないが、コミュニケーション能力に難のある男だったように思う。
彼は僕が人生で会った人間の中でもトップクラスに真面目な人間だった。節約のために親元から1時間半かけて大学に通い、全ての授業を滞りなく受けきり、学生時代から続けているという水泳の習慣を維持しながらも、先輩からの過去問等の資産に一切頼る事なく単位を取り切った。尊敬すべき男だった。
そんな彼の数少ない趣味が、坂本真綾だった。ある日、何気なく音楽の話になり、僕は坂本真綾の「ヘミソフィア」の話をしたように思う。彼は突如怒り、こう言った「真綾さんだろ!さんを付けろ!」僕はAKIRAを一切知らない人間からこの言葉が出てきたことに一種の感動を覚えつつ、彼に詫びた。真綾さんは彼にとってまさに唯一の偶像(アイドル)だったのだ。
真綾さんの、鈴村健一氏との結婚が報じられたのも我々が在学中であったと記憶している。彼はただ悲しんでいた。僕は浅はかにも「言うてキミ真綾さんと結婚出来るとか思ってたんか?」とか考えていたけれど、そんなシンプルな結論を下せるような話ではないのは、のちに様々なガチ恋勢の悲鳴を耳にしてようやく理解出来た。
彼はシャイな男だった。飲み屋に行った時に連れションに誘われ、店員にトイレの場所くらい聞きなさいよと僕が言ったことばに返して曰く「店員さんが女の子しか居ないから恥ずかしくて聞けない」である。20過ぎにもなろう男がそれは流石にマズイやろ、と苦笑しつつも店員を呼んだ。
学生としても人としても実際は彼のが遥かに優秀で、僕が心を病んで退学した一方で彼は公官庁の何らかの部門に就職したとの噂を聞いた。本人へのパスは既に喪失し、10年以上何の交流もない。あの日のシャイな男はどうしているんだろう。今この瞬間に駆け巡る吉報にどういう思いで向き合ってるんだろう。
案外、彼はとっくに少年を脱ぎ捨てていて、スマホを見ながら笑ってるような気もする。
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