Day1508先行研究があることのありがたみ
先行研究が無数にあるような研究を行う場合、「先行研究ではこのような尺度・分析方法が使われていた」という風に、いかに自分の研究が先行研究とは微妙に異なっているかということを書いて、研究のオリジナリティを表現することが多いかもしれない。その分野のど真ん中の研究をやっていれば、先行研究が逆にありすぎたり、先行研究があまりにも優れていることが多く、自分の研究ではこういう文脈でやってみたけど、先行研究と同じ結果が出たまたは出なかったという書き方をするかもしれない。「がっつり先人のマネをしました」と言い切ることで、新しいことをやっていなかったとしても、その分野に貢献したと言い張ることができるかもしれない。そういう意味で、先行研究を積み上げてきてくださった先人らには頭が上がらない。
一方で先行研究が数えるほどしかなく、それらが致命的なミスまたはガバガバの理論と研究デザインで論文を書いていかにも「私がこの分野の先駆者です」というオーラを出していた場合、それらの研究論文に欠陥があるかというふうにたたき台にして自分の研究をやる意義を確かなものであるように見せることが多いかもしれない。先行研究が少ないとやはりどうしてもそれらの質も下がってしまうが、「がっつり先人の研究(しかばね)を踏み台にしました」と言い切って全く違う研究デザインで研究を行う時点で、その研究は新しいことに挑戦していると自信を持って言い切れるのかもしれない。
先行研究が多すぎる(飽和状態にある)場合は、その分野の伝統的な手法を踏襲した上でかなり精密で厳格な研究デザインが求められる上に、うまく行っても「先行研究のおかげ」または「先行研究と同じ」と言われてしまうかもしれない。が、先行研究が少なすぎる場合は、研究手法のハードルが下がる上に、新しい先行研究としてその分野で更新することができる可能性がある(と思う)。先行研究が多すぎるのも、少なすぎるのもどちらも困るが、まだその研究においてスタンダードとなるような研究デザインが無ければ、その分野は穴場であり、先行研究をたたき台にして堂々と画期的なことをやっても怒られないであろう(笑)。自分はそういう研究をやっていきたい(笑)。