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中村武志に抑え捕手大石友好(1988年のドラゴンズ)

元中日・横浜・楽天で活躍した中村武志さんが2024年シーズン、韓国プロ野球の起亜タイガースのコーチに就任しました。過去にも同球団でコーチ経験があり、ぜひ手腕を発揮してほしいものです。

中村氏は近年YouTubeのプロ野球関連コンテンツへの出演も多く、自身のチャンネルでも星野仙一氏との関係を色々とお話しされています。私のような40代半ばのプロ野球ファンとしては、「中日の正捕手=中村」なわけで楽しませてもらっています。

その中で星野監督一次政権時代、一軍に定着してリーグ優勝を果たした1988年に「最後は大石友好さんが抑えの捕手という形で出てたので自分はほとんど郭さんと勝利の握手をしていない」といった趣旨のお話しをされています。私自身プロ野球マニアになったのは1991年(中学1年)だったので、その前は知ってはいるけど詳しく見てはない状況。

「1988年はスタメンで90試合以上出てるし、そうはいっても春先に交代させられてるくらいだろう」とあまり深くデータを見ていませんでした。(まだまだネットに野球データが転がっていなかった大学時代、当時1988年以前のレコードブックを持っていなかったので、図書館で新聞の縮刷版から1985~1988年頃のスタメンを全部拾ってホームページで公開してましたっけ(笑)

改めてその発言と、Full-Countでの大石氏のインタビュー記事を読んだこともきっかけとなって、データをちゃんと調べてみようとベースボールレコードブック1989(1988年のデータ)を紐解いて記録を集計してみました。(以下選手名は敬称略)

スタメン定着は5月後半から

星野政権2年目となる1988年開幕戦のスタメンは大石。前年まで正捕手を務めた中尾孝義は外野へ転向し、中村を本格的に育てていくようなシーズンとなりましたが、開幕からしばらくはベテラン大石の出番が基本。控えにはもうひとりベテラン、日本ハムから大宮龍男を獲得しており、中村を育てながら勝つ、という体制を整えていたことが分かります。

中村が本格的にスタメンに名を連ね続けるようになったのは5月後半から。そこからは、ほとんどの試合で中村がスタメンマスク、負け試合や代打として大宮が出場したり、勝ち試合では大石が途中からマスクをかぶったりという展開。中村自身が語っていたような試合が続いていました。

その傾向はシーズン終盤までずっと続きます。抑えのエース(クローザーという言葉はまだ無い)だった郭と中村が初めてマウンドで勝利の握手を交わしたのは何と9月27日。ここまで徹底して郭・大石で試合を絞めていたとは驚きました。今の今までこの事実をスルーしていた自分にも驚きですが。

チーム勝利の6割以上は大石で絞めていた

※上記表、全79勝のうち捕手3人に代打が送られサヨナラ勝ちした3試合を除く76試合で計算。そこに最後に交代していない場合のサヨナラ勝ちは含む

ちなみに10月7日、リーグ優勝を果たしますが、この日は中村が最後までマスクをかぶり続けて郭とマウンドで抱き合うことができました。そこは星野監督の粋な演出といったことろなのでしょうか。また大石、大宮も代打で出場しています。

正捕手としての一歩を踏み出した中村ですが、翌1989年もまだ完全には郭とのコンビを組ませてもらえないのです。そのあたりのデータはまたの機会にご紹介しようと思います。

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