人生の中のどのタイミングでも女子高生ではなかった人だ、私は(前編)

かわいいものに憧れ続けて、見苦しいままで生きてきたけれど、今度ばかりは限界かもしれない。私はかわいくなれないだろう。

女子高生収容所(忍殺)を読みました。
可読性の為に引用でもないものを括ります。

あらすじ:街で誘拐した女子高生を外界から隔離された収容所に入れ、セーラー服を着せたまま無意味な労働(例:穴を掘って埋める)に従事させる。プリクラやネイルサロン、制服のクリーニング、健康的な食事、十分な医療、そこには女子高生を女子高生たらしめる為の全てがある。そのくせ監視カメラやエッチなおじさんはいない。女子高生である人間から「女子高生である」こと以外を徹底的に剥奪し、「女子高生である」ことを強制する。だがそこでは「女子高生である」ことに意味は発生しない。次第に女子高生は自分達が「女子高生である」ことに意味を見出そうと女子高生同士の性的な触れ合いを求めたり、「女子高生である自分が作ったものなのに、女子高生である自分が掘った穴なのに、そこには何の価値も認められず、消し去られるのだ。」といった名文を生み出したりする。

この女子高生収容所が作られた経緯について、作中では一切言及がない(登場人物の一人が「これは悪趣味な闇カネモチによって運営される、女子高生性を擦り減らす為だけの施設に違いない」と彼女なりの推測を述べているが、彼女の心境が心境なだけに、地の文の保証なしでは真相は不確かだろう)。
だから読者は実況用タグなどを使ってこの施設が持つ意味を見出そうとし、しかし一切の意味が見つからないので圧倒的な虚無の前に恐れおののくばかりだった。

私には一つ、この施設の意図を提言できる。
これはきっと施設運営者にとっての復讐に違いない。
それ以外で、何も生まない行為にこれほどの労力を割けるだろうか?

説得力の材料として、ニンジャスレイヤーという小説のテーマに触れてもいい。ニンジャスレイヤー(1部から3部)は、ニンジャに妻子を殺された主人公フジキドが全てのニンジャを殺すことで復讐を成し遂げようとする物語であり、その無益さと意義については幾度となく語られている。インガオホーとサイオーホース(作中では物事の皮肉な結末に対して使われることが多い)を重視する原作者なら、この辺りの重ね合わせは考えていてもおかしくない。


女子高生を憎む気持ちは、私にもある。

私のルールブックには「何もできないならお前は無価値だ」「他人とのやり取りは全て『奪う』か『取引する』のどちらかである」と書かれていた。でも世の中には、代わりに「好意は無償で与えられる(べきだ/ことがある)」「相手に見返りを示すより前に、相手が自分に好感を持ってくれることがある」と書かれている人がどうやらいるらしい。
私はそれに憧れていて、同時にそれがゆるせない。

後編では私の、かわいいものへの憧れと苦しみ、憎しみについて話す予定です。


余談
どなたの記事か失念してしまった(知っている人がいれば教えてほしい)が、少女革命ウテナの感想にこういうものがあった(なにせうろ覚えなので便宜的・暫定的に「」で不適切ながら引用したい)。

記憶が正しければ、確か「アニメを見ていた当時、私は確かに天上ウテナに憧れていたはずなのに、今の自分はアンシーを魔女と罵る民衆だ。男性からトロフィーのように"大切に"扱われる若い女性に憎悪を感じてしまっている」といった内容だった。

追記
見つかりました。

#それは起こらなかったしこれからも起こることはない

スキを押すと武藤遊戯が使ったカードをランダムに一枚引けます。(noteに登録していなくてもボタンは押せます)