かわいいに「なる」とは

求む、かわいい人格』で少し触れた話だけど、既に作られたかわいい存在に「なる」のと、自分がかわいく「なる」では意味が違う。

それによく似た話を、361°アートワークスの「喰われる人格」を見ていても思った。舞台役者に演じることについて話してもらう企画なのだが、彼らの「なる」は当然前者(既にある役に「なる」)だ。彼らは台本を読み込んで、この人物はどうしてこんな発言をしたのだろう?と考えて、台詞の意図や物語が観客に伝わりやすいように努力する。

一方で、バ美肉やVRアバター、Vtuberの文脈で語られる「なる」は別の「なる」なんじゃないか? (予め予防線を張っておくと、Vtuberに関しては、自分で書いたキャラクターシートに沿って演じるタイプの人もいるだろうから、きっと一概には言えない)
こちら側の「なる」では、どのようなキャラクターになるかを自由に決められて、自由に調整できる。そしてなにより台本がないから、キャラクターの言動は中の人の能力や考えに依存する。中の人の要素が、口調や音声を少しだけ加工されて表に出てくるのだ(。だからこそ、キズナアイの炎上沙汰で彼女自身の主体性が話題にあがったりするわけだが、まあ今日はその話はいい)。

この記事とどちらが先に投稿されることになるかわからない(書き溜めの弊害)が、「「かわいい」の前に、「かっこいい」って何?」という記事で話した/話すように、人物像について話す際には、脚本の有無という観点を意識した方がいいかもしれない。(追記:出ました)


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