求む、かわいい人格

バーチャルブームで人は容姿の苦しみから解放されつつある。
一方で、内面の苦しみから逃れる術についてはずっと放置されたままじゃないか? そして相変わらず、私は「かわいい」に飢えている! という話。


「誰もが自分のなりたい容姿で活動できる理想の時代が来た!」といった話を、何度耳にしたことか。実際には、絵やモデリングの技術を持たない私のような人には少し遠い話ではあったけど、確かに理想の容姿で活動できる場所と、その姿ありのままを受け入れてもらえる社会的な土壌が出来たことは間違いない。容姿だけであれば、理論上は私でもかわいくなれるはずだ。

しかしそれで十分なのか?

内面の呪縛から抜け出すために

いくら容姿を取り繕ったところで、表に出た思考や発言がかわいくなければ何の意味もないことくらい、誰だって知っているじゃないか。バーチャルの話を持ち出すまでもない。例を出すならツイッターで十分だ。
アイコンとハンドルネームがどれだけかわいくても、言動でそれを損ねている人はいくらでもいるし、もちろんその逆もたくさんいる。外見と同じくらい肝心なのは、その人の人柄であり、人柄は言動から形作られるのだから、つまりはそれらしい言動ということになる。

そして、これはいずれの機会に必ず書こうと誓っている話なのだが、その人の印象という隠しパラメータは、日常の中の些細な言葉選びに左右されている。数あるレトリックの中でも特にわかりやすいのは比喩だ。例を挙げると、複雑に絡まったものを「蜘蛛の巣のようだ」と例えるか、「パソコン周りのケーブルみたいだ」と例えるか。他には「ホームレスの髭」や「失敗したあやとり」といった表現も可能だろう。この中のどの比喩を使うか、或いは使わないか、によって、その人の人柄の印象が左右される。
比喩を使わない場合でも、「絡まった」「ややこしい」「うざったい」「複雑な」……といったふうに、表現は無数にある。

もちろん、機械音痴でスイーツとイケメンが好きで……といった風に、自分の趣味と思考を殺して、ステレオタイプな女性像になってしまうという手もなくはないだろうけど……、それは「自分がかわいくなった」のうちに入るのか? そのステレオタイプな女性像をかわいいと思っていて、自分もそうなりたいと心から思っているなら問題はないけれど、私の主観で言えばそれは悪い意味で平凡な印象だし、もっと言えば「いかにもネカマっぽい」。

今の私の目標は、後で下げることもありうるけど、自分の趣味・思考はそのままに、なるべく自分がかわいくなくなる分野の話題に触れず、かわいい表現や語彙を身に着けることで、かわいさを偽装することだ。


Q:簡単に言うけど、できるの?

A:やる。でもたぶんきっつい。
表現選びは無意識だからこそ人柄が出るのであって、意識的に変えるのは一筋縄では行くまいよ。

今うっすらと考えているのは、自分のように一念発起してかわいい道に入門しようと思っている人をたくさん集めてツイッターにコミュニティを作って、活きたコミュニケーションの中でかわいさを磨く作戦。これが表現の技巧の問題である以上、場数を踏むことは何より大事だろうし、かわいいの相互監視状態を作り出すことで内なるおじさんの露呈を防止する効果も期待できる。

私自身、「はい、ロールプレイしてね」と言われてそれらしいことをする能力がとても低いこともあって、わざわざかわいいを学ぶための環境を整えないことにはかわいいは会得できないだろうしね。
私は私の弱さと気まぐれさを信用しているのだ。


ちょっとした問題と、ちょっとした使命感

一方で、この手法には問題点もあって、こうして生まれた「かわいい」は言わば突然変異体。偶発的に生まれた他おじさんの「かわいい」を模倣するだけでなく、その先に進む為には実践だけではなく理論も必要になる。

更なる「かわいい」を追求したり、「かわいい」を得る為の手法を見出す為には、「~~だから、かわいい(たぶん)」と説明を試みたり、「このかわいさは、~~という練習で会得できる(かもしれない)」とかわいいを技術化したりする必要があるというわけだ。

なんとなくで得られた「かわいい」を(最初のうちは不正確にでも)言葉にすることで、同時代の求道者と考えを共有し、議論を交わし、助言を送り合うことが出来る。それに、時代を超えて残るのも文字だ。考えた痕跡を誰かがきちんと言葉に残さなければ、一年後、二年後の人でさえゼロからのスタートになりかねない。

……やりがいのある仕事になりそうだ。

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