断章の寄せ集め:『1990年代論』

 本書は、1990年代社会の各側面に関する総体的でスタンダードな記述をめざしたものでは全くない。主観性・専門性の強いエッセイの寄せ集めという感じで、全体の俯瞰を試みる構成にはなっていない。解説もなく専門用語が出てくることも多い。このレーベルからは同じコンセプトで『1980年代』も出ているが、本書には「論」とタイトルについているのは、そのことに自覚があるからだろう。とはいえ、正直いって「論」ですらない単なる自分語りが目につく。たしかに、体験記や証言でも読み物としてはそれなりに面白く、当時の「気分」を感じることはできる。しかし、どの章もきわめて短いページ数なので、十分に掘り下げた議論が読めるわけでもない。ただ、宮台のインタビューは「法外の共通感覚の喪失」に始まる「法化社会化」という視点で、社会が寛容さを失っていく過程をすっきりと見通していて流石だなと思った。まぁ本書をわざわざ買わなくても他で同じこと言っていそうだけど。
 
 そのうえで本書全体から受け取った印象をいえば、それは「1990年代は面白くない」というものだった。これは多分に90年代の過渡期的性格によると思われる。一方では、1980年代に始まる新自由主義化の途中であり、また21世紀の経済的停滞の途中でもある。しかし、一般的に市井の意識は現実に遅れて変化するものであるから、雰囲気としては世紀末的な空虚感が強く、人びとは精神的価値を求めがちだったことが幾つかの章から窺える。ほかにも、インターネット普及以前であり、カルチャーが特定の土地と結びつく最後の時代とされている。
 こうしてみると、「新自由主義と貧困化」「インターネット普及」をはじめ色々な点において、21世紀後の断絶は大きいと感じる。そのため、今日90年代を参照する意義があまり感じられない、というのが正直な感想である。
 
  
■Part A 社会問題編
 たとえば、「Part A 社会問題編」の冒頭をかざる、仁平典宏の論考からして、1990年代には政治・経済・社会データに表れるような特別な変化はないとしている。そのうえで、朝日新聞と読売新聞の見出しに、「日本社会」という言葉が突出して多い年代だったことを指摘する。単に「社会」とせず“日本”とわざわざ付けることに、「自分たちの暮らす社会を客観視しよう」という自己相対化の態度をみいだせるという著者の議論は、それなりの説得力があった。そこから、「社会を変えようと意志した」と捉えるのはやや飛躍を感じないでもないが、これもよく分かる。しかし、その後の経済の長期停滞やアジア諸国の台頭を受けた内向き化とともに忘れ去られていく。
 次の吉田徹の論考は、今日の政治を特徴づける「敵対の政治」と「忖度の政治」が1990年代に準備されたと論じる。つまり、小選挙区制および内閣の権限強化の功罪(とくに罪のほう)に焦点をあてた内容である。近年よく議論されているものに近く入門的なものだが、コンパクトに整理されている。
 これら2章はそこそこ面白かったのだが、以降はとつぜん語り口が「軽く」なる。つまり、エッセイになってしまう。雨宮処凜のように完全に自分語りに終始しているものもあり、それぞれの切り口から鋭角的もしくは表面的に1990年代の社会の様相を概観するかたちになる。そのなかでは比較的興味深かったのは、精神科医の松本卓也によるものである。一方では時代を語るメタファーとして呼び出される病いが「精神分裂病」から「解離」に変化したことが指摘される。これは、「父=権威」が問われなくなったということである。他方では、そうした現代思想的・批評的な議論のよそで、カウンセラーの信田さよ子が機能不全家庭やそのトラウマを「生き延びる」ための心理的援助について語り始める。まさしく高尚な思想談義が没落し、生活的にも心理的にもサバイバルが問題になる21世紀の前夜として、1990年代における心理をめぐる言説をうまく系譜学してみせている。
 
 
■「Part B 文化状況編」
 こちらになると、ある程度最初から詳しい読者向けのマニアックな話が多く、執筆者もアカデミシャンでない人が多くなって語り口の個性がますます強く出ることになる。正直、読んでいて頭が痛くなる章ばかり。とくにクラクラしたのが日本映画を論じた章である。著者は、2016年の異例の大ヒット作『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の「ポストシネマ」的な特徴を、90年代を代表する映画監督である岩井俊二が先取りしていたと主張する。以下引用。
 
 「すなわち、16年以降に現れた「ポスト日本映画」の内実とは、いわば日本に「映像」の前景化をもたらした「90年代」という「抑圧されたもの」の回帰であったと捉えられるだろう。(中略)つい最近まで、「映像」という新たな論理(原初的欲望?)は興行や批評の現場で押さえつけられていた。16年に起こったのは、いわばそうした「映像」という90年代の「トラウマ」がはっきり解放された徴候的事態ではなかったか」(p.201)
 
 これらの精神分析用語は単なる比喩以上のものではなく、レトリックとして効果的かも疑わしい。むしろ、2016年の例外的大ヒット映画を根拠に、普遍的で不可逆的な変化を論証しようとするミーハーな議論のうさんくささに拍車をかけているようにさえ見える。「 」の多用もハッタリか予防線に思われるし、読みにくい。要するに内容以前の問題で、そんなに大それた話でもないのだから、地に足の着いた言葉遣いをしてもらいたいものである。
 
 この部分があまりに印象的だったのでつい取り上げてしまったものの、ほかの章の語り口も「個性的」というか、『エヴァ』批評~ゼロ年代批評のノリ。着眼点もかなり局所的というか、あえてふだん語られない周縁的なトピックに注目する。「ゲーム」はノベルゲーム。「テレビ」は深夜番組。「少女漫画」は改行なしのメンヘラ自分語りで、取り上げられるのはもちろん岡崎京子。「少年漫画」は、『封神演義』の偽史的な想像力が、歴史の終わりの空虚さへの対処として歴史修正主義が台頭する90年代後半と響き合っていたとかいうフワッとした話。「文学」は女性作家。以下略。いずれも主観的な「思い入れ」が込められすぎていて、少なくとも「1990年代の●●はどうだったか」を知るのには全く役に立たない。あとは読者が「共感」できるかどうか、つまり主観による。


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