結局「消費社会の甘えた若者」論:『露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析』

 独創性もあるが、要旨だけみれば「消費社会の甘えた若者」論から脱しきれていないのが物足りない。

 以下はほとんど容赦のない批判なのだが、それでも★5にした理由はまず、ふつうに面白いこと。本書では、ハイデガー、ドゥボール、アガンベンらの哲学・思想や、本邦にはまだ知られていないラカン以後のフランス精神分析家の議論などが、著者の独自のパースペクティブのもと繋げられて、さまざまの社会的文化的事象を題材にしながら、思考が自由に展開していく。著者の筆運びのスピードに乗り、夢中になって読んでしまう。
 しかし、そもそも私は、内容に同意・共感できた度合いによって点数を付けようとは思わない。本書を読んでイライラさせられたが、それゆえに私は私なりに考えることができた。そういう本は貴重である。

 
 一言でいえば、もどかしい本だった。
 「心的空間の陥没」つまり心の平板化、思考の貧困化……、言ってしまえば、人間は強く何かを思い、深く何かを考えるような存在でなくなりつつある。それが、本書が現代人に下した診断である。私はこれに強く賛成するし、本書が明確に時代の本質を捉えていると考える。
 しかし、問題はそこに至るためのアプローチである。「テクノロジーと資本主義の結託にどこまでも支配される現代文明」「私的なものの開示や秘められたものの露出」といった現代的事象から著者は出発するが、すぐさま道のりは「消費社会」「若者の規範化」「去勢の否認」といった、いつもの問題系の中に入っていってしまう。こうして不快なものを取り除いて快適な社会にしたら正の感情もなくなるのではないか、という何とも陳腐な話になってしまう。確かに、本書はそこで筆が置かれるほど退屈な代物ではない。「表象v.s.提示」「エロース的身体v.s.生物学的身体」「メタファーv.s.メトニミー」といった切り口は真新しいし、ラカン以後のフランス精神分析理論の紹介役も果たしている。それでも著者の出発点は、おのずと本書の射程を縮めてしまったように見える。たん的にいえば、本書の舞台はいまだに消費社会の上にあるし、主人公はいまだに消費者なのだ。
 とはいえ別に「今の世の中が消費社会じゃない」とは思わないが、しかし「若者の規範化」と言ったところで、現実には遅くとも大学を卒業すれば大半の人間が働かなくちゃいけないのだ。そして非正規雇用の増大など、いよいよ厳しくなる労働の現実は日々報道されている通りである。苦しむ人びとと日々接する精神分析という仕事を営む著者の話に、現代社会のかかる側面は登場してこず、数十年前の「甘え」とか「モラトリアム人間」とかの延長線に位置づけられ得るような内容になっているのは、、、正直言って大変残念な気持ちになった(※)。

 
 著者は酒鬼薔薇事件から話を始めている。この事件を受け、少年の「心の闇」がマスコミなどに取りざたされたが、それは、実際のところ少年に欠けていたものではないか。むしろ彼は「心の闇」を作り損なった=「抑圧」をし損ねた、というのである。この論旨それ自体はまあいい。ただ、ここでは、不意にか故意にか著者が指摘しなかったことに着目したい。それはこの事件の後に起きたことだ。つまり「少年法改正」によって、刑事罰対象年齢が16歳以上から14歳以上に引き下げられたことである。
 この少年法改正は、そもそもが「少年犯罪の凶悪化」というデタラメに流される形で行われたのだが、社会の「排除型」化を典型的に示す出来事と言える。ここにある思想は、要するに、教育による少年の更生の可能性に対する否定である。害虫はただ叩き殺せばいいというわけである。ところで教育とか更生とかいった「規律の内面化」には、内面=心が必要だ。だから「排除型社会」とは「心を排除する社会」でもある。いよいよ徹底される計算的合理性の鉄の檻は、その成員をそれぞれの心を有する存在として扱うことを拒否し、交換可能な部品としか見ない、そういうネオリベ社会である。

 秋葉原通り魔殺人の扱いにも疑問を抱く。犯人が直前に電子掲示板に予告していたため、著者にとっては「心の闇の露出」の格好の一例だったのかもしれない。しかしこの掲示板は2ちゃんねるやtwitterなどと違って、ほとんど誰も見ていないサイトだった。つまり犯人は大っぴらに犯罪予告したのではなく、それでいて読まれる可能性のあるウェブ上に意思をつづったのも確かである。犯人の屈折した心境が伺えるが、少なくともそこに「承認」の問題があることは明らかだろう。そしてウェブ上への「露出」の多くが、承認欲求に駆動されての事ではないかと思うのだが、この点も著者の視野には入ってこないようだ……。また「承認」が今日かくも問題になっていることと、現代社会が排除型であることに関係があるのも間違いあるまい。

 以上の事柄は、わざわざ今更述べるのも青臭い気がしてはばかられるような、当たり前の光景となりつつある。
 しかし、本書の主人公たちはもっぱらボードリヤール以来の消費者(「若者」)であり、本書に描かれる光景はもっぱら消費社会のそれである。いわく、彼らはデジタル時代にあって即座の満足を求めるようになり、不快には耐えられず、「抑圧」を忘れ、云々。それくらいのことだったら、小此木啓吾でさえとうの昔に言っていたではないか。本書では、わずかに「統計学的超自我」の登場する箇所のみが、競争激化社会の寒々とした有様を捉えている。

 
 さて、本書が捉えている(と私が思った)現代社会の本質は、「心的空間は今日いたるところで押し潰され、平板化され、私たちの『心』はただの間延びした薄っぺらな平面にかぎりなく近づきつつあるように見える」ということだった。それと、この競争社会とがどうつながるかを捉えようとすると、すぐさま「適応adaptation」という概念が出てくるはずだ(※※)。
 「父の没落ないし複数化」のもと成熟がもはや不可能で、しかも子供のままでいられるほど社会に余裕もない以上、あとはもう「適応」という劣悪な代替案しか残されていない。そして適応を突き詰めれば、心は余計なのである。実際、うつ病に苦しむ人はよく「ロボットになりたい」「蝿のような単純な生物に生まれたかった」などと口にする……。
 さてさて、読書感想文の場にこんなことを書くのにはもちろん理由がある。まず「適応」は、第8章以降に批判される「認知行動療法」でしばしば使われている概念だからだ。いや、というか精神医学だけでなく、普通の心理学においても、この概念は広く当たり前に使われている。
 それだけではない。精神療法にこの概念を持ち込んだのは、誰あろうハインツ・ハルトマンである。アメリカにおける精神分析(自我‐心理学)の絶頂期に君臨した男である。著者が属するラカン派は、自我‐心理学と真っ向から対立する思想だ。
 そういう意味で、著者が「露出」という切り口(何度も言うが、これは消費社会の一場面でしかない)に拘泥せずにアプローチしていれば、必ず「適応」概念を問題にしていたと思うし、そうするべきだったと考える。

(※)まして著者はラカン派。土居や小此木とはかなり離れたところに位置する人であろうと私は思い込んでいたからだ。けれども、おそらく本書の隠れたモチーフだと思われるラカンの「資本家のディスクール」からして、結局は消費社会論である。おそらくこれが根っこにある原因であろう。
(※※)おそらくこの概念は進化論からの借用だと憶測するが、ここで重要なのはダーウィンではなくスペンサーである。環境に適応(=進化)した種が生き残る生存競争の世界を描いたスペンサーは、それをそっくりそのまま人間社会にアナロジーし、自由放任を説いた。ビジネス誌などでよく「日本企業は“生き残れるか”」といった見出しを見るように、このアナロジーは今や現実と化している。

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