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目に見える努力の量だけで評価をしていると間違えてしまう、ポイント制で考えるとわかりやすいんじゃない?という話

こんにちは。ボイストレーナーのでんすけです。

今回は、こんなツイートを目にしたのでそれについて。

「努力神話」を信じすぎているがゆえに、日本が消耗していっているという話。

「努力」は目的達成のための手段

そもそも、努力ってなんだろうか。

ツイート元の記事でも書いてましたが、
他人からは客観的に評価するのが難しいもの。
定量的には測定しづらいものです。

例えば、テストの点数を良くしたい!100点を取りたい!という場合。

1日8時間、図書館にこもって教科書を読み続ける、のが努力なのか。
徹夜をして参考書の問題を解きまくる、のが努力なのか。
テスト範囲のノートを小一時間見返す、のが努力なのか。

おそらく、「努力」として「すげー頑張ってるじゃん!」と言われるのは、8時間図書館にこもるか、徹夜をしたケースです。

でも、テストを受けた結果、全員同じ90点かもしれない。
なんなら、小一時間ノートを見返した人が100点を取るかもしれない。

「努力」というのは、あくまで
「100点を取る」という目的を達成するための手段の一つでしかありません。

もっと言えば、普段から真面目に授業を受けている人なら、テスト直前に勉強しなくても100点が取れるかもしれません。
「あいつはなんの努力もしてないのに100点取れてズルい!」
といわれるかもしれませんが、
「真面目に授業を受ける」という努力をすでにやっているわけですね。

「努力」に見えない「努力」

音楽でも、そういうことあります。

「歌」というジャンルは特に顕著な気がしていますが、
歌が上手い人って、なんだか何もしなくても歌が上手い、みたいなイメージで語られることが多いんです。

実際のところはそんなことなくって。
歌が上手い人は何もしてないわけではないんですよ。
幼い頃から無意識に歌っているような人が多いんです。
それも、「頑張って練習しよう!」という気持ちではなく、「気持ちいいから歌おう!」ぐらいの気持ちで。
やってるうちに、こうしたらもっと気持ちよく歌えるぞ!というのを発見していって、いつの間にか上手くなっている。

そうすると、他人から見ると
「あいつは生まれつき歌が上手くてズルい」
と見えるわけですが、
実は長いこと努力していた結果なわけです。
それも「苦労」した実感のない「努力」を。

計測できる時間が「努力」と呼ばれる

これらの例から、
実際に計測できた時間の量
あるいは、目に見えて時間をかけたことがわかるできごと
のことを、世間一般に「努力」と呼んでいるのではないでしょうか。

だからこそ、
残業してまで仕事した方が「努力してる」ように見えるし、
休日出勤や徹夜をしてまで仕事した方が「よくやっている」ように見えるわけです。
それは、明らかに時間をかけていることがわかりやすいから。

日本人が「努力を信仰しすぎている」というのは、
目に見える努力を信仰しすぎ」という言い方に置き換えてもいいのかもしれません。

努力は「してもらう」こともできる

冒頭のツイート元の記事であったような、
「透析患者も自助努力をすべき」
のような議論の場合、
「生活していく」ことが目標になるわけですが。

この場合、透析患者本人が努力できない or 生活するのに足りるだけのパワーを持っていない、という状況と考えられます。

こういう場合、病院や家族、場合によっては友人が手助けをしてくれて、ようやく「生活していく」という目標が達成できるわけですが。

これ、「他人に頼っている」とも見えますが、
「他人にお願いする努力をした」
「もともと他人から信頼されるような生活を送っていたから助けてくれた」とも考えられる。

つまり、本人がなんの努力もしていないわけではない、ということです。
もっとできることがある可能性はありますが、
余力を残して目標が達成できるならそれに越したことはないですし、
その余力を使って次の目標に向かっていくこともできるかもしれない。
例えば「『一人で』生活をしていく」を新しい目標にするとか。

努力の必要量はだいたい決まってる

努力は目標達成のための手段だ、と書きましたが、
おそらく、「ある目標」を達成するのに必要とされる努力量というのは、最初からだいたい決まってるのではないでしょうか。

例えば、こんな感じ。
スタートからゴールまでの距離(努力量)が「100ポイント」みたいな。

で、これを一晩で一気に達成しようとすると自分が持っている「努力ポイント」100ポイントを一気に使い切って、疲れ切って達成する感じ。

ても、長い時間かけて、10ポイントずつ積み立てていけば、割と楽にゴールに行くことができます。こんな感じで。

これはつまり、
「普段から真面目に授業を受けている」や
「昔から好きで歌を歌ってる」みたいなことです。

また、ツイート元の記事にあった透析患者のケースだったり、あるいは仕事で何かのプロジェクトを成功させたい、といった場合、
一人だけの努力ではなく、複数人の力を合わせる必要があります。

仲間がいれば、50ポイント、40ポイントを使ってくれる人がいたりして、
Aさんは10ポイントしか使わなくて済むことに。

ポイントの振り分け戦略

複数人で目標を達成するケースだと、例えば透析患者本人は体力がなくて、努力ポイントが50しか残っていないかもしれません。
その場合、100ポイント必要な「生活していく」という目標には、一人では届きません。

これを「全部一人で頑張れ!」と言ってしまうのは論外ですよね。論理的に不可能です。
でも、じゃあ40ポイントまでは一人で頑張って、10ポイント使って他人にお願いしなさいよ、と考えるとどうなるか。

もしかすると、「他人にお願いする」という目標には、30ポイントぐらいの努力ポイントが必要かもしれません。
そうすると、「生活する」に40ポイントを使ってしまうと足りなくなる。
30ポイントの余力を残しておかないといけないわけですね。

と、ここまではたとえ話なので適当にポイント制で話をしましたが、実際にはどれくらいポイントが必要かはわかりません。

わからないが故に。
「ポイントを多く使って努力した」=「エラい!」
という評価だけで話をしてしまうと、
「生活していく」のに必要なポイントに達することができなくなります。
本当は、40ポイントだけ「他人にお願いする」に振り分ければ達成できたはずなのに。

現実の世界では、もっと複雑に「目標」が細分化され、分岐していて、どの目標にポイントを割り振ればいいか判断するのも難しいものです。
そんな中で、例えば「生活していく」というわかりやすい最終目標だけに全ポイントをかけて「努力している」ように見えることが、果たして戦略的に正しいのかどうか
「他人にお願いする」あるいは「別の大事な目標にポイントを割く」という選択が間違っていると言い切れるのか。

これは、判断をしている本人にもわからない話。
ましてや他人が簡単にわかるわけがない。

そんなわけで、
「努力してる」=「目標に直接、努力ポイントを全がけしてる」ことだけで物事を評価すると間違えやすいよ、ということです。

まとめ

ということで、努力量だけでは評価してはいけない、という話でした。

ここまで書いてきたように、
・努力をポイントのように考えて、
・目標達成には一定のポイントが必要、
というルールが当てはまると考えれば、

・人はそれぞれ持っている努力ポイントの残高が違う可能性がある
・生きていく上では様々な目標があって、どの目標にどうポイントを割り振るかの戦略は人それぞれ
・目標にポイント全がけしても、達成できない場合がある(その方が多い)

ということに思いが至りやすいのではないかと。

そうすれば、努力だけを評価に使うのも間違いだと気づきやすいし、
逆に努力のしなさすぎの場合は、ポイント振り分け戦略のどこらへんが間違っていたのか、という議論もしやすいかと。

何事も、一面だけを見てはいけない、ということだと思います。

それではまたー。

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